――次に関東地方を廻ってみましょう。

 

バレエ音楽・白鳥の湖より

「4羽の白鳥たちの踊り」

「情景(終曲)」

 

作曲=ピョートル・チャイコフスキー

指揮=ワレリー・ゲルギエフ 

マリインスキー劇場管弦楽団

鎌倉・七里ガ浜=日本バレエ発祥の地、パヴロワ館

▲エリアナと高弟の藤田繁、生徒たちと
▲エリアナと高弟の藤田繁、生徒たちと

          エリアナ・パヴロワ(1897~1941)は、ロシア革命から逃れ、1919年(大正8)に来日、1927年に鎌倉・七里ガ浜に日本初の「パヴロワ・バレエスクール」を設立します。パヴロワは今日の日本のバレエの基礎を築いた人々を育てましたが、その中には日本バレエ協会の初代会長の服部智恵子をはじめ牧阿佐美、橘秋子、貝谷八百子、森下洋子などがいます。1933年に日本への帰化を申請し、1937年に許可され、エリアナ・パヴロワは霧島エリ子、母ナタリアは桜子、妹ナデジダは撫子と改名しています。1941年日本軍慰問の南京で死去、軍属の戦病死として扱われ、鎌倉市は市葬を行いました。スタジオは長く「鎌倉パヴロワ記念館」として公開されていましたが、1996年閉鎖され個人の邸宅となっていますが、「日本バレエ発祥の地」記念碑があります。

 

イコン画家・山下りん墓碑(笠間市)

          日本人最初のイコン画家として知られる山下りん(1857~1939)は、茨城県笠間市で生まれました。明治13年12月に23歳のりんは、横浜を出発、帝政ロシアの首都ペテルブルクに留学、女子修道院でイコン制作技術を学び、1883年に帰国しました。その後は東京神田駿河台の女子神学校にアトリエを構え、イコン制作に没頭しました。ニコライ堂、函館復活聖堂、須賀(すが)正教会など約300点のイコン画を描いています。1939年83歳で死去しました。りんは山下家の菩提寺である笠間市の光照寺に墓があり、墓石には「山下りん之墓」と刻まれています。白凛居(=笠間市)に山下りんの遺品と作品が所蔵・展示されています。

 

サハリン、アムールを踏査した間宮林蔵記念館(つくばみらい市)

          間宮林蔵は江戸時代の探検家、測量家で、蝦夷地をはじめクナシリ、エトロフ、さらにソウヤから北上してサハリンの北端まで探検し、大陸とサハリンの間の海峡は間宮海峡と名づけられています。  

                  カラフト奥地探検でカラフトは島であることを最初に確認したのは松田伝十郎ですが、後に林蔵は対岸のアムール流域にまで踏査して島であることを確認しています。ロシアは間宮海峡ではなくタタール海峡と名づけています。茨城県つくばみらい市(旧伊奈町)には林蔵の生家と記念館があります。記念館の近くの専称寺に林蔵の墓と顕彰記念碑があり、記念碑と墓は稚内市と東京の菩提寺である本立院(ほんりゅういん)にもあります。

 

          茨城県古河市中央町にある古河博物館には、江戸後期の古河藩家老、蘭学者の鷹見泉石(1785~1858)のロシア関係資料も含む膨大な史料が寄託されています。とくにさまざまな地図の複写は正確なものであり、レザノフの「魯国亜国地図」、大黒屋光太夫の「魯西亜国字学」、「魯西亜言語集」など注目されます。泉石はロシア、蝦夷の事情を研究しており、大黒屋光太夫からロシア語を学び、近藤重蔵らと接触し意見交換をしています。日露和親条約に調印した外国奉行の川路聖謨(かわじとしあきら)は、「自分が蝦夷のことを話すのは、鷹見翁のお伝えである」と述懐し泉石の研鑚を高く評価しています。

 

          埼玉県加須市にある加須未来館には、本物のロシア製ソコルーKV2宇宙服が展示してあります。これは1998年に製造されたもので、ロシア人のヴィクトル・アファナシェフ宇宙飛行士が、、ソユーズTM―29で着用したものです。ロシア連邦のNPPズヴェズダから譲り受けたもので、ソユーズ宇宙飛行船で飛行するすべての搭乗員が着用しているものです。

                

横浜外人墓地(横浜市)

          横浜外国人墓地は、幕末の米黒船艦隊来航の際の軍人を埋葬するために造られたのが始まりです。日本にはロシア人墓地という場合、日露戦争で戦死した水兵や捕虜収容所で亡くなられたロシア兵の墓地が多いのですが、横浜、函館、神戸などは日本に居住していたロシア市民の墓地として知られています。日本バレエ界に貢献したエリアナ・パヴロワ、帝国ホテルのコックのイワン・サゴヤン夫妻、箱館でロシア料理を始めたピョートル・アレクセーエフらがここに眠っています。

 

          1739年(元文4)4月、シュパンベルグ率いる4隻の探検隊はカムチャツカの港を出港、6月16日日本の北東岸を発見、初めて日本の地を探検隊の目で見ました。途中で単独行動となったヴァリトンらのガブリール号はシュパンベルグらよりもさらに南方の安房の東岸の天津村、伊豆下田、和歌山まで達したという。5月24日、ガブリ―ル号は天津村沖合に錨を下ろしました。幕府は異国船出現の情報を仙台、安房(あわ)の天津より受けていたので、「銀貨」「神札」をとりよせて長崎のオランダ商館長に鑑定を依頼、“むすこうびや”=モスクワ公国、すなわちロシアのものだということがわかり、異国船はロシア船であることが判明したのです。「ロシア人上陸の地記念碑」は鴨川市浜萩に建立されています。

 

アンナ&ニーナ・スラーヴィナの墓(草津町)

           モスクワ最古のドラマ劇場であるマールイ劇場で学んだアンナ・スラーヴィナは、ニージニ・ノヴゴロド、スモレンスク、カルーガの国民劇場やワルシャワのザクセン帝室劇場の舞台に出演したが、第一次世界大戦とロシア革命から逃れ、長女エカテリーナと次女ニーナとともに、ハルビンを経て、日本の女流奇術師・松旭斎天勝一座に加わり、釜山から下関へと渡りました。1918年(大正7)にアンナ母娘はスラ―ヴィナ劇団を結成し日本全国で公演しました。アンナは松竹や倶楽部でダンスを教え、エカテリーナは「キティー・スラ―ヴィナ」として映画「光に立つ女」「鉱山の秘密」「極光の彼方へ」「力よ響け」「お転婆娘」に出演しました。「光に立つ女」(1920年作)は外国人を出演・主演させた最初の日本映画でした。エカテリーナは日本舞踊を習得、外国人最初の舞踊の名取になりました。1927年(昭和2)、エカテリーナはパーヴェル・トルシチョーフと結婚、1928年コンスタンチンが生まれました。1937年(昭和12)、アンナとエカテリーナは、東京において日本在住亡命露人協会主催のプーシキン記念の夕べ、ロシアの夕べ、ロシア文化の日のイベントに演劇、文学講演で中心的役割を果たしていました。1940年、エカテリーナは仕事の為アメリカへわたり、太平洋戦争のために日本に戻ることはありませんでした。1949年ハリウッドで病没、ニーナは群馬県沼田市の老人ホームで永眠、アンナは草津町の山荘で永眠、コンスタンチンは10代にハンセン病にかかり長い間苦痛と苦悩の日々を過ごしました。彼は2005年9月、初めてロシアを訪問、2006年(平成18年)1月14日ボストンの修道院で死去しました。日本語の詩集『ぼくのロシア』(『ハンセン病文學全集』所収)、『うたのあしあと』(土曜美術社刊)、『コンスタンチン・トロチェフ詩集』(皓星社刊)を残しました。

 

           東京にはニコライ堂のほかに、杉並区宮前に山手ハリストス正教会・主の降誕聖堂があります。栃木県には宇都宮市、足利市、那珂川町(なかがわまち)、鹿沼(かぬま)市の4か所にあります。群馬県には高崎市、みなかみ町、前橋市にあります。千葉県には柏市に手賀ハリストス正教会・聖使徒神学者・福音記者イオアン聖堂、匝瑳(そうさ)市に須賀ハリストス正教会・生神女福音聖堂があります。神奈川では小田原ハリストス正教会・聖神降臨聖堂、茨城県では城里町の圷(あくつ)ハリストス正教会・聖使徒パウエル会堂があります。

 

横浜のニューグランドホテル(子犬を連れたリジア・パヴロヴナ・ヴェセロヴゾーロヴァ)

  ホテルニューグランドは1927年(昭和2)に誕生しています。大正から昭和前期は、ロシア革命から逃れて横浜にも白系ロシア人がたくさん来ていました。1940年には日本在住亡命露人協会がホテルニューグランドでチャリティー舞踏会を催しています。リジア・パヴロブナ・ヴェセロヴゾーロヴァは1896年にペテルブルグで生まれ、1958年に大連―天津―香港―横浜のルートで来日、ホテルニューグランドにチェックインして以来、30年間このホテルに小犬とともに滞在・宿泊します。職業は上智大学ロシア語教師でした。2000年に彼女は町田市で死去しました。104歳でした。また、舞踊家のニーナ・スラ―ヴィナが戦前の一時期このホテルの工芸品の売店で働いていました。

シベリア出兵と尼港(ニコラエフスク)事件  天草・国見・平生・水戸・小樽・札幌に殉難碑

 1917年のロシア十月革命によって樹立されたソビエト政権にたいして、資本主義諸国は連合して1918年に軍隊を派遣して干渉侵略戦争をはじめました。日本、アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、カナダ、中国が連合国の共同軍事行動をとりました。第一次世界大戦中ロシアと戦って投降したチェコスロバキア軍団救援の名目で行われたが、日本はアメリカとの合意を無視して、7万3千人の大軍を派兵、1920年の連合国軍撤兵後も日本軍はシベリアに居座り、内外の非難の中で1922年に撤兵しました。そうした中で、1920年ニコラエフスク(尼港)で日本人居留民や日本兵士753人が虐殺される事件が起こり、1919年には257人のイワノフカ村民を日本軍が虐殺するといういたましい事件が起こりました。イワノフカ村には日ロ共同追悼碑「懺悔の碑」があるが、日本各地には殉難碑が建立されています。

熊本県天草郡五和町の東名寺境内にある「尼港事件殉難碑」(1923年建立)

山口県熊毛郡平生町の墓地内にある「尼港順難者之碑」(建立年不明)

長崎県南高来郡国見町の光専寺境内にある「尼港事変殉難者碑」(1923年建立)

茨城県水戸市の旧練兵場跡内にある「尼港殉難者記念碑」(1935年建立)

小樽市の手宮公園内にある「尼港殉難碑(殉難者納骨堂堂)」(1936年設立)

札幌市の護国神社境内にある「尼港殉難碑」(1927年建立、1955年現在地に移設)

 

マトリョーシカの発祥地は箱根の七福神が有力(箱根町)

  ロシアのマトリョーシカのルーツは神奈川県の箱根の入れ子人形の七福神であるという説が有力です。1890年パリ博で初めてお目見えして、一躍世界的に有名になったロシアの木製の組み子人形、マトリョーシカは世界中に出回っています。1996年秋に日本で初めてロシア連邦文化省から民族手工芸家を招いて、絵付け講習会が行われましたが、ロシア側文献によると、『ロシア民芸品―ロシアのマトリョーシカ』(L・M・ソロヴィヨーヴァインテルブツク・ビジネス社、1997)、『マトリョーシカーマトリョーシカ絵付けの教授法』(N・アレクサヒン著、国民教育出版社、1998)などいずれもルーツが日本であることを指摘しています。箱根唯一の木地師、田中一幸の店には「ロシアのマトリョーシカルーツは箱根」の看板が掲げられ、木工伝統工芸品がつくられています。

鎌倉のロシア大使館別荘(鎌倉市)

 ロシアの機関・諸施設は、港区の大使館・領事部、札幌・新潟・大阪の総領事館、品川区の通商代表部、ノーボスチ通信社、渋谷区のイタル・タス通信社などがありますが、鎌倉市には洋館の大使館別荘があります。すでにソ連が崩壊して30年が経過しましたが、この別荘はソ連時代に造られたものです。

大衆に愛される演歌とロシア民謡を追求 作曲家の吉田正と只野通泰のあゆんだ道(日立市・吉田正音楽記念館)

                  作曲家・編曲家の只野通泰は日本の歌謡曲の編曲のスタイルの基礎を築いた編曲家の一人と言われています。第25回松尾芸能賞、第57回日本レコード大賞特別功労賞を受賞しています。終戦後シベリアに抑留され、そこで遭遇した沿海州楽劇団では独唱と詩の朗読の北川剛、ヴァイオリンの黒柳守綱、アコーデオンの井上頼豊が活動していました。抑留中に竹山逸郎の「異国の丘」(吉田正作曲)をアコーデオンで伴奏し抑留仲間を励ましていました。「潮来笠」「いつでも夢を」「星影のワルツ」「せんせい」などの大ヒット曲の編曲を手掛け、吉田正とコンビを組んで彼の作品の殆どを編曲しました。只野は「吉田正は俺の中にはロシア民謡があるといつも言っていた」とシベリア抑留者の吉田正を語ります(只野著『ロシア民謡と演歌』)。ロシアの大地から生まれた心打つメロディが「バイカル湖のほとり」などロシア民謡だと言う只野はメロディが日本の演歌と共通性があると指摘します。2400曲を超える作品を創作した吉田正は哀愁漂うメロディで日本の大衆の心をとらえてきましたが、吉田正作曲、吉永小百合の大ヒット曲「寒い朝」はロシア民謡そのままだと言われます。茨城県日立市には吉田正音楽記念館があります。

ロシア人留学生の交換留学受け入れ数千人に 東海大学(平塚市)と創価大学(八王子市)

                    日本のなかのロシアで人的交流の分野では、東海大学と創価大学のモスクワ大学との交換留学生の相互派遣・受入れが今日までに約2千人になっています。モスクワ大学と東海大学は1973年に両国の大学としては初めて学術協力協定を締結して以来、学術・留学・スポーツなど幅広い分野で交流を積み重ねてきましたが、留学生の受け入れは1974年から開始し、47年になります。創価大学では、1975年にモスクワ大学との学術交流協定に調印、学生間の交換留学に尽力、2016年6月に「ル―スキー・ミール基金」との協定に基づきロシアセンターを開設しました。留学した若者は日露両国において、外交官、ビジネスマン、通訳などで活躍しています。

日本の24の高校でロシア語教育
根室西高校、関東国際高校、早稲田高等学院、富山高専ら

               日本では大学、専門学校、市民講座のほかに、全国24の高校でロシア語教育が行われています。北海道11校(札幌丘珠高校、札幌国際情報高校、千歳高校、石狩翔陽高校、有朋高校、余市紅志高校、旭川南高校、根室高校、根室西高校、札幌新陽高校、札幌大通高校)、

                東北2校(青森南高校、能代松陽高校)、関東6校(北園高校、関東国際高校、早稲田大学高等学院、早稲田本庄高等学院、慶応義塾志木高校、立教新座高校)、北陸5校(小千谷西高校、三条商業高校、富山高専、伏木高校、志貴野高校)です。週3時間以上の授業があるのは関東国際高校、富山高専、早稲田高等学院、根室西高校の4つで、他は第二外国語科目です。『大学間・高等学校―大学間ロシア語教育ネットワークの確立』日本学術振興会報告書(平成28年)で林田理恵代表は「多様な外国語に触れ、それを自らの力とすることは、日本の若人が人種・国籍・宗教・性別といった壁を取り払い、みなが共に手をつなぎ、差別・格差のない社会を実現するための大切な手立て(『ロシア語教育支援・就職情報』サイトより)であり、そういった手立てとなる生きたロシア語の教育・学習を作り上げていくために、まだまだ課題は山積みである。」と結論づけています。(なお、毎年の受講生の変動で実施校には変化があります。)