――隣国ロシアに最も近い北海道には歴史的な日露交流の足跡が全道に見られます。 

 「黒い瞳」

 

作曲=フローリアン・ヘルマン

作詞=エヴゲニー・グレビョンカ

歌詞補作=ヒョードル・シャリアピン

歌=ヴァレンティーナ・ヴォロニナ

バンドネオン=ゲンナディ・シシリン 

写真をクリックするとキャプションが見られます。以下の章も同様です。

函館=日本最初のロシア領事館

          日本とロシアは1855年(安政2)に外交関係を樹立し、最初のロシア領事館は函館に設置されました。初代領事はヨシフ・ゴシケーヴィチでした。ゴシケーヴィチは日露学術文化交流のうえで大きな役割を果たしました。1872年(明治5)に東京にロシア公使館が開設されたことに伴い、函館の領事館は事実上閉鎖状態におかれました。19世紀末から20世紀初めは、露領漁業・北洋漁業の基地・函館の領事館としてサハリン、沿海州、カムチャツカ方面に向かう船の証明書や査証を発給しました。 現存の「旧ロシア領事館」は火事で焼失したあと1908年(明治41)に再建されたもので、ロシア革命後、日ソ基本条約が締結され、1925年(大正14)5月25日にソ連領事館として引き継がれました。これまでどおり、主に露領方面に出漁する船や人に対する査証を行いました。1944年(昭和19)に閉鎖され、戦後は空白のあと1965年(昭和40)から1996年(平成8)までの約30年間、青少年の宿泊研修施設「函館市立道南青年の家」として使われました。現在、この建物は閉鎖されており、外観のみ見学ができます。なお、2003年(平成15)9月には、在札幌ロシア総領事館函館事務所が開設されました。このほどこの建物は名古屋の企業に売却されました。レストランなどが開設されるとのことです

          旭川には、日本プロ野球史上、初めて300勝を達成したロシア人、ビクトル・スタルヒン(1916~1957)の名前がついた野球場、「スタルヒン球場」があります。旭川中学校(現旭川東高校)で1年生からエースとなり、日本野球界にその名はとどろき、日米野球にも代表として抜擢されるほどでした。読売巨人の基礎を築いた功労者でしたが、太平、金星、高橋などにも所属し通算302勝をあげ、40歳で自動車事故で亡くなりました。球場前にはスタルヒン像が建てられています。輝かしい栄光の一方で、太平洋戦争末期にスタルヒン一家は軽井沢に強制疎開させられ、憲兵や特高に追い回される日々を過ごすなど政治と戦争に翻弄された人生でもありました。 

                  又、旭川には、樺太の泊居(とまりおろ)(現サハリンのトマリ)で暮らし、旭川新聞社に勤めた詩人、小熊秀雄(1901~1940)の詩碑が常盤公園の一角にあります。小熊はプロレタリア文学運動やロシア文学の影響を受けつつ、時代の流れに抵抗する独自の世界を創り上げました。『小熊秀雄詩集』、長編叙事詩集『飛ぶ橇(そり)』、『流民詩集』は没後80周年の今日でも大勢の人々に感動をあたえています。

          1939年(昭和14年)12月12日の夜明けに浜鬼志別(はまおにしべつ)沖約1000メートルのトド島附近で、ソ連貨物船(実は囚人護送船)インディギルカ号(1125人乗船)が座礁・転覆し702人が命を失うという悲惨な海難事故がありました。この年はノモンハン事件が起きており、当時は最悪の国際情勢の下でしたが、猿払村民は命がけで約400人を救助し、流れ着いた遺体を引き揚げました。昭和46年に小高い海岸に慰霊碑を建立し、慰霊祭を行ってきました。猿払村はサハリン州のオジョールスキー村と友好姉妹村締結に調印しています。

          日露貿易は、1956年の日ソ国交回復後に順次軌道にのり、1960年に1億ドルに達し、1989年の60億ドルが日ソ貿易の最高記録で、ソ連崩壊後の日ロ貿易では2014年340億ドルを記録しましたが、2016年に164億ドル、2020年165億ドルと後退しています。このような一進一退の歴史のなかで、約200年前の江戸時代後期には幕藩体制を揺り動かす商業資本家たちの鎖国政策とたたかう苦闘がありました。その一人が加賀の銭屋五兵衛(1774~1852)です。美しい高山植物で知られる礼文島の高台に「銭屋五兵衛貿易の地」記念碑が立っています。礼文島は現ロシア極東、カラフト(北蝦夷地)、ソウヤ、蝦夷地との交流には至便の地であったのです。北蝦夷地―カラフトは江戸時代後期に北前船の交易対象であり活発な経済交流がおこなわれていました。

           稚内市のサハリンをのぞむ稚内公園に著名な彫刻家である本郷新(1905~1980)が製作した「氷雪の門」(「樺太島民慰霊碑」)が建立されています。第二次世界大戦の際に、サハリン(樺太)で亡くなった人々の慰霊と望郷の念をこめ1963年(昭和38)に建てられたもので、8メートルの門と2・4メートルの女性像から成っており、芸術性が高く評価されています。
  稚内市内にはロシア語の交通標識が随所に見られ、市街商店街=中央アーケード街のお店にはロシア語の表示・看板があり、樺太記念館もあるロシア色の強い街ですが、コロナと戦争の影響で沿岸貿易が停滞し人口も減少、困難に直面している印象です。

アダム・ラクスマン来航記念碑(根室市) 

          日本とロシアの公式の接触は、江戸時代の寛政4年(1792年)9月5日、ロシア第1回遣日使節アダム・ラクスマン(1766~1806)がエカテリーナ号で根室に来港したことに始まります。ラクスマン一行は約8カ月間根室の弁天島に滞在し目的である漂流民の返還を理由に、幕府や松前藩の役人と日露の交渉を行いました。一行には、漂流民の大黒屋光太夫、磯吉、小市の3人も乗船していたのです。この時の根室での日露交流で最初のロシア語辞典『魯西亜語類』がつくられ、ヨ―ロッパ地図やスケートが伝えられました。ラクスマン来航を記念して、根室市役所となりのときわ台公園に「歴史の然」というモニュメント(池田良一制作)が建立されており、エカテリーナ号を描いた「俄羅斯舩之図」(おろしやぶねのず)と、ロフツォフ船長を描いた「ワシレイラフロウ之図」などが、根室市歴史と自然の資料館に展示されています。漂流民の小市は祖国を目の前にして病気(壊血病)のため亡くなり、慰霊碑が根室市営西浜墓地に建立されています。

          大相撲第48代横綱である大鵬(1940~2013)は、優勝32回の偉大な記録を持っていますが、樺太の敷香(しすか)郡敷香町(現ロシアのサハリン州ポロナイスク)において、母・納谷キヨと父ボリシコ・マルキヤンの5人兄弟の二男として誕生しました。終戦と同時に日本に引き揚げ、北海道の弟子屈町の川湯温泉が故郷となっています。ここには大鵬相撲記念館があり、大鵬幸喜の記念像が建立されています。

          日本とロシアは、日露戦争、シベリア出兵、日ソ戦争と3回の戦争を繰り返しています。1907年から10年間の第1回~4回の日露協調の時代をのぞけば、戦後長期の冷戦時代も含め良好な両国関係の時代は少ないのが実情です。その中にはポツダム宣言受諾の1945年(昭和20)8月15日以後にも悲劇の歴史が刻まれています。日本海に面する留萌市の千望台に建てられている「樺太引揚三船殉難の碑」もその一つです。1945年8月22日、樺太(サハリン)から日本へ引揚げる人々を乗せた小笠原丸、第二新興丸、泰東丸の三つの船が留萌沖で「国籍不明」とされる潜水艦の魚雷攻撃を受けて、1708名の犠牲者をだしました。これらの人々の冥福を祈って市民運動によって建立されたのがこの三船殉難碑です。

                 (注:ソ連は8月8日対日宣戦。日本は8月14日ポツダム宣言受諾。15日無条件降伏。9月2日ミズーリ―号船上で降伏文書調印。==日本は8月15日を終戦と認識していますが、欧米諸国は日本と連合国との降伏文書調印の9月2日を終結とみなしています。ソ連(ロシア)は9月3日を対日戦勝記念日とさだめています。最後まで戦闘状態の樺太は知取(しりとる)協定調印の8月22日、実質的には23日停戦成立。)

旧日本郵船小樽支店(小樽市)

          小樽市は古くから貿易港でロシア船の入港が多く、ロシアとの交流が盛んでした。街の各所にロシア語の案内表示があります。1910年(明治43)に創立された小樽高等商業学校(現小樽商科大学)で、戦前、ロシア語を教えていたニコライ・ネフスキーは柳田国男らと親交をもった民俗学者でした。1906年(明治39)11月にはポーツマス条約に基づく日露の樺太国境画定会議が、小樽市重要文化財旧日本郵政株式会社小樽支店の二階会議室で開かれ、隣の貴賓室で祝盃が交わされたという歴史的遺構です。貴賓室は鏡付き大理石暖炉や華麗な色彩空間に復元されており、会議室は装飾彫刻、シャンデリヤ、大絨毯など時代を感じさせる雰囲気をつくっています。国境碑(模型)、国境碑拓本、画定会議などの写真や資料を展示しています。

苫小牧市科学センターに旧ソ連の宇宙ステーション「ミール」

          苫小牧市旭町にある苫小牧市科学センターミール展示館には、世界に1機しかない旧ソ連宇宙ステーション、ミールの予備機を展示しています。実験室内部や無動対応トイレなど、ミールの中を見学できます。

          第一次世界大戦(1914年)の際に、ロシア帝国の従軍医としてスモレンスク・ドヴィンスク・ペトログラード・キエフ・ヤーシ(ルーマニア)で医療活動を行った関餘作(幕末最後の蘭医・関寛斎の六男)は、終戦後もウラジオストクの一番川施療所で医師として働きました。帰国後は船医として世界をめぐり、北海道の共和町に住居をかまえてからは1946年(昭和21)に関医院を開設、貧しい農民や庶民には無料の診療活動をしたことで知られます。1960年(昭和35)11月5日に86歳で逝去しましたが、岩内郡共和町の共同墓地に葬られています。

アレウト号遭難慰霊碑(せたな町) 

          北海道久遠郡(くどうぐん)せたな町には、露国軍艦アレウト号乗組員遭難慰霊碑があります。1877年(明治10)11月19日、ニコラエフスクからウラジオストクに向け航行中のロシア軍艦アレウト号は、暴風雨にあい、瀬棚沖で座礁。セルゲイ・クラーシェニンニコフ艦長以下60名の乗組員は住民の協力で全員救助されました。ところが、翌年4月に残留乗組員を迎えにきたロシア軍艦エルマーク号に向かう際、ボートが転覆、12名の犠牲者をだしました。1972年(昭和47)10月20日に慰霊碑が建立されました。

 

ゴロヴニン幽囚跡&ゴロヴニン記念碑(松前町)  

          松前町は、ロシア海軍ディアナ号艦長ワシーリ・ミハイロヴィチ・ゴロヴニン少佐が幽閉された地であり、記念石碑が町内の徳山大神宮に建立されています。1811年(文化8)6月、ロシア政府の命で千島列島の測量調査をしていた「ディアナ号」艦長ゴロヴニンらが江戸幕府によってクナシリ島で捕らえられ、松前に幽囚されました。ロシア側に捕らえられた豪商、高田屋嘉兵衛らと交換されるまでの2年3カ月間、投獄・抑留され、その滞在記は『日本幽囚記』(岩波文庫)『日本俘虜実記』(講談社)に著しています。ゴロヴニンは幕府派遣の足立左内、馬場佐十郎、村上貞助らにロシア語を教え、馬場は日本で初めて魯日文法書を著し、露日辞典を訳編し、足立は『魯西亜国辞書若干巻』を著しました。

         中川五郎次(1768~1848)は、江戸時代にシベリアで最新の医療技術を習得し、その書籍を持ち帰り、エドワード・ジェンナーの発見した牛痘(ぎゅうとう)種痘法を日本に伝えた最初の人です。青森県川内町で生まれた中川五郎次は、エトロフ場所で番人小頭として働いていた1807年4月に、ロシアのフヴォストフ一行によって拉致され、シベリアに5年余滞在、1812年(文化9)8月に帰国を許可されてクナシリ島に送還されました。オホーツクで医師に貰った種痘書は、松前に幽閉されていたゴロヴニンからロシア語を習った馬場佐十郎が『痘瘡(とうそう)予防法』として翻訳し、1820年(文政3)に『遁花秘訣(とんかひけつ)』と改題、約30年後に三河の利光仙庵(りこうせんあん)が『魯西亜牛痘(ろしあぎゅうとう)全書』として上梓しました。中川五郎次は、1824年(文政7)頃、12名に種痘を実施したことが確認されていますが、実際にはもっと多くの人々に行われたと伝えられています。松前町の松前公園に「中川五郎治顕彰の碑」が建立されています。五郎次は法源寺にある両親の墓と共に埋葬されています。函館の高龍寺には親族の墓があります。

         高田屋嘉兵衛(1769~1827)は、1801年(享和元年)にクナシリ航路の発見、エトロフ島開拓で活躍、幕府から「蝦夷地常雇船頭」を任じられ、苗字帯刀を許された箱館の豪商です。1811年(文化8)のゴロヴニン事件の際には、江戸幕府がロシア船ディアナ号の艦長ゴロヴニンを幽囚した報復としてクナシリ島で捕らえられ、一旦はカムチャツカへ連行された後帰国、松前奉行を説き伏せて艦長の釈放に尽力したことが知られています。銅像は函館出身の彫刻家・梁川剛一に制作を依頼、宝来町の護国神社坂に建立されています。箱館高田屋嘉兵衛資料館は、ベイエリアの一角に建ち1986年(昭和61)に開館、北前船にまつわる史料を中心に約500点が展示され、北前船辰悦丸の復元模型、寛政当時の箱館の絵図、昆布を採取する道具、羅針盤、船箪笥、日本で最初のストーブの復元品などがあります。

外国人墓地(函館市) 

         函館市船見町23番地にあるロシア人墓地には約50基の墓があります。幕末に箱館奉行から貸渡された墓地で、1870年(明治3)に開拓使函館支庁と在函五カ国領事の間で外国人墓地協定が締結されました。最も古い墓は1859年に亡くなったアスコリド号航海士ゲオルギィ・ボウリケヴィチの墓で、対馬を一時占拠した軍艦ポサドニク号乗員7名らロシア海軍兵士25名、初代領事ゴシケーヴィチ夫人の墓、そして函館で生涯を終えた白系ロシア人の墓などがあります。

          函館のロシア料理の始まりは、日本のロシア料理の始まりでもあります。ピョートル・アレクセーエヴィチ・アレクセーエフ夫妻が経営するロシアホテル(ホテル「ニコラエフスク」)が1863年(文久3)頃に箱館の大町居留地とよばれた埋立地にオープンしています。このホテルのレストランのロシア料理が始まりです。しかし、日本人によるロシア料理の登場は、函館の五島軒です。1879年(明治12)に若山惣太郎が富岡町にパン屋を開業し、続いて、当時の繁華街である旧桟橋附近に五島英吉の協力を得てロシア料理、パン、ケーキの店を開業しました。他にも、1909年(明治42)開業の鞍馬軒、大正時代に開業したライオンというロシア料理レストランがありましたが、今でも続いているのは五島軒だけです。創業140年を超えて、現在でもロシア料理フルコース(予約制)をメニューに入れています。

北洋漁業の先駆者・平塚常次郎銅像(函館市) 

         北洋漁業の先駆者である平塚常次郎(1881~1974)は、函館に生まれ、エトロフ島に移住、18歳で札幌の北海露清語学校に入学、ロシア語の専修科で学びました。樺太の大泊(現サハリンのコルサコフ)に渡り、ロシア人向け雑貨店に勤め、日露戦争後、カムチャツカで漁場経営にかかわってから、北洋漁業との長い関係ができていきます。明治の終わりから、大正を経て、昭和の国交回復期までにロシア・ソ連領に50回以上も足を踏み入れた日本人は平塚だけです。1956年(昭和31)の日ソ国交回復で平塚を頂点とする漁業界の果たした役割は極めて大きいものです。函館アリーナの湯川公園には1963年(昭和38)に寄贈された平塚常次郎のブロンズ像が建てられています。

木津幸吉・田本研造と写真発祥の地碑(函館市)

         北海道最初の写真師である木津幸吉(1830~95)は、新潟県新発田(しばた)市に生まれ、安政の末に函館に渡り、弁天町で仕立屋を開業しました。ロシア領事のゴシケーヴィチや在留外国人の注文で洋服を作り上げていました。写真機材を入手した木津はゴシケーヴィチに写真術を習いました。彼は仕立屋を閉じ、船見町90番地に木津写真館を元治元年(慶応2年説もあり)に開き、箱館奉行杉浦誠と娘の登美らを撮影しています。函館市豊川町のグリーンベルト内に「北海道写真発祥之地」碑が建立されています。高さ2メートルの仙台石で造られています。木津幸吉は1869年(明治2年)に上京、スタジオを開設して営業しましたが、1895年(明治28)に死去しました。又、北海道で初の職業写真家田本研造(1832~1912)は万延元年頃に箱館に渡り、慶応2年(1866年)に写真館を開設、榎本武揚、土方歳三、松前藩士らの撮影をしています。

洋画草創期の横山松三郎墓碑(函館市) 

         写真家、洋画家の先駆者である横山松三郎(1838~1884)の墓は、函館市の高龍寺にあります。又、東京の泉岳寺山門左側に「横山君墓碣銘」が建立されています。横山は、1838年(天保9)にエトロフ島で生まれました。来日したロシアの画家レーマンの助手になり、洋画の技法を勉強しました。下岡蓮杖(しもおかれんじょう)、ゴシケーヴィチ領事に写真技法を学び、日光、江戸城、正倉院、伊勢神宮、京都御所などを撮影し、写真油絵にも取り組んでいました。又、横山は、函館に帰り、木津幸吉や田本研造の写真館開業に助力しました。武田斐三郎(たけだあやさぶろう)の周旋によって陸軍士官学校の絵画教師となります。日本洋画界の先駆的作品を残し、1884年(明治17)10月15日に東京で死去しました。

         19世紀にロシアから日本へもたらされた正教会(東方教会)は、日本ハリストス正教会として、日本各地に情緒あふれる教会建築物を有し、その深い精神性を受け継いで現在に至っています。北海道には1861年(文久1)に来函したニコライが日本で最初にロシア正教を広めました。「函館復活聖堂」をはじめ、札幌・小樽・釧路・苫小牧・上磯・斜里・上武佐に聖堂を所有する教会があります。「函館復活聖堂」は正式の名称を「主の復活聖堂」といい、ロシア領事館附属聖堂として建立されましたが、1907年(明治40)に大火で焼失、1916年にロシア風ビザンチン様式で再建されました。内部の円天井や冠状の緑色の屋根が美しい。鐘の音色から「ガンガン寺」と市民から親しまれ、1983年(昭和58)に国の重要文化財に指定されました。また鐘の音は、1996年に「日本の音風景100選」に認定されました。16点の山下りんのイコン画が聖堂にあります。札幌の正教会には山下りんのイコン画が31点あります。

         「ステッセルのピアノ」というのは、北海道紋別郡遠軽町の北海道家庭学校に90年前から伝わるピアノのことです。19世紀後半、ドイツで製造され、ロシアで使用された記録が残されています。日露戦争の終結時に、日本の司令官乃木希典がロシアの司令官ステッセル将軍と、水師営(中国大連市旅順)で会見した際の戦利品の一つで、ステッセル将軍夫人愛用のピアノと伝えられています。1906(明治39)年12月に、当時東京巣鴨に所在していた家庭学校の本校に国から寄贈され、1932(昭和6)年の夏に北海道の分校に運ばれ、望の岡礼拝堂に備え付けられました。そのピアノは家庭学校全体の音楽活動の要となり、日曜礼拝や演奏会、クリスマス会や結婚式などの際に多くの人々に演奏され、家庭学校と地域の人々をつなぐ絆にもなりました。長年管理保管してきた北海道家庭学校(1914年留岡幸助創設)は、たびたび故障していたピアノを1994(平成6)年に静岡県のヤマハ浜松工場で修復し、甦ったピアノで演奏会などが開かれました。ピアノは高さ1250㎜、間口1425㎜、黒漆塗りのアップライトピアノで、暗いところで演奏するときにロウソクを立てた金属の燭台が左右に取り付けられていて、両脚の部分にも手の込んだ装飾が施されています。。譜面台の下にはアルファベットの金色の文字で PAUL EMMERLING,ZEITZ. SPECIALLY MADE FOR DEMPFH CLIMATE ORDERED BY M.HAIMOVITCH.(銘柄:ポールエマーリング、製造国:ドイツ(旧東ドイツ)ライプツィヒの近くのツアイツ、湿地帯仕様に特別に作られた、依頼主:M・ハイモヴッチ)、と書かれています。2024年2月現在は、家庭学校の博物館内に保管されています。