[日本音楽界のなかのロシア]
--日本洋楽界の芸術的飛躍の時期とロシア

           (石田一志)

          第1次大戦後、1919年(大正8)年1月にパリで開かれた対独講和会議に日本も全権団を送るが、この頃からロンドン軍縮会議の1930年頃までを近代史で「協調外交」「国際協調の時代」と呼んだりする。

          国際性を意識したこの時期は、短くはあるが、日本音楽界が大きな芸術的飛躍を遂げた特別な時代であった。初めて専門家も愛好家も国内でじかに世界の巨匠たちの妙技に接し、本場さながらのオペラの舞台を鑑賞し、本格的なオーケストラの響きに酔う機会を得たのであった。そしてそれに併せて芸術性や国際性を意識した国内音楽家たちの活動も開始したのである。

          この時期の日本洋楽界に大きな足跡を残した外来の音楽家たちの中に、実に多数のロシア人あるいはロシアと関り深い音楽家たちが含まれていた。

          世界の一流音楽家たちが日本を訪れた理由は、参戦国ではあっても主戦場から遠く離れ、何ら痛手を受けることなく戦勝国になって戦時景気の恩恵を受けた日本が、有望な世界の音楽市場の一つと見なされたからに他ならない。また、ロシアとの関りが強かったのは、革命によってロシア系の芸術家の多くがシベリアから、連合国の一員である日本を経由してアメリカに亡命することが少なくなかったからである。

         しかし、それだけではない。国際的な文化都市であった上海のフランス租界や共同租界。ロシアの植民都市でありとくにユダヤ人の人口が多かったハルピンの存在が、日本の文化の国際性に深い影響を及ぼしていた。

          1918(大正7)年のセルゲイ・プロコフィエフ(1891-1953)の来日については、すでに言及があり、同年7月に帝国劇場で2日にわたってリサイタルが開かれたことは良く知られている。実は、帝劇ではその一月前の6月にピアノのアルフレッド・ミロヴィッチ、ヴァイオリンのミシェル・ピアストロのジョイント・リサイタルがあり、さらに同年9月にはモスコー・トリオの演奏会も催されている。いずれもロシアの優れた演奏家で、ピアストロはペテルブルクのアウアー門下、モスコー・トリオはモスクワ音楽院の出身である。

          この6月と9月の演奏会に人材を派遣したのがアウセイ・ストローク(1876-1956)であった。ラトヴィア出身のユダヤ系音楽家一族の出で、1910年代初めから上海租界でオーケストラのヴァイオリン奏者で、革命後にマネージャーとして活動を開始した人物である。(ストロークの上海での活動に関しては井口淳子さんの研究がある)

          ストロークの興行主としての業績は目を見張るものがある。ヴァイオリンのミッシャ・エルマン、エフレム・ジンバリスト、フリッツ・クライスラー、ヤッシャ・ハイフェッツ、ヨーゼフ・シゲティ、シモン・ゴールドベルク、ジャック・ティボー、チェロのエマニュエル・フォイヤマン、モーリス・マーシャル、、あるいはピアノのベンノ・モイセヴィッチ、イグナッツ・フリードマン、アルトウール・ルービンシュタイン、シューラ・チェルカスキー、レオポルド・ゴドフスキー、ミッシャ・レヴィッキー、リリー・クラウス、レオニード・クロイツァーなど、バス歌手のフェオドール・シャリアピン、作曲のアレキサンドル・チェレプニン。文字通り、世界中から超一流の音楽家たち、なかには伝説的とも呼べる音楽家たちを次々と帝劇を通して日本に紹介したのだから。 

          しかし、それでもストロークが重点をロシアの紹介に置いていたことは否定できないと思う。

          それは、「ロシア大歌劇団」の公演によっても明らかだ。この一座は革命の年1917年にモスクワで結成され、ロシア各地を巡業の末、翌年にはウラジオストックまで革命の混乱から逃れてきていた。一座のアジアツアーをストラークは計画したのである。帝政ロシアの一流歌手、オーケストラ、合唱団、バレエダンサーを含む85名からなる、巡業劇団とはいえぬ規模の歌劇団であった。その最初の公演地としてストロークが白羽の矢を立てたのが大戦景気の日本であった。

          事実、帝劇は2万円の契約金、1,500円のギャラという破格の条件で一座を招聘した。その後、「ロシア大歌劇団」は、1939(昭和14)年9月の予定が中止になるまで、1921(大正10)年、26(大正15)年、27(昭和2)年と来日を4回にわたって繰り返している。しかも、第3回、続く第4回は、ロシア本国の芸術局(ラピス)の依頼でロシア在日大使館が間に入り、強固に第1回、第2回の時の団員を白系ロシア人たちだと否定している。大正15年8月13日付けの「東京日日新聞」には、ロシア大使館側の発言が次のように紹介されている。

          「最近まで東京に現れたオペラ団は大部分がハルピン、上海方面の浮浪者の寄せ集めでロシア楽団ロシア・オペラとは名のみ、これ等と新興ロシアのオペラ団などと混同されては面目に関する。」  

          つまり、「ロシア大歌劇団」によってストロークは帝政ロシア時代の面影を追っていたわけではなく、新興ロシアのオペラ団でも良かったことになる。この辺りの真相はまだ詳らかではない。

          ところで興味深いのは演目である。全4回の来日公演のすべてがイタリア、フランス、ロシアのオペラに集中していることである。具体的には、イタリア・オペラがロッシーニ「セビリャの理髪師」、ヴェルディ「リゴレット」「椿姫」「アイーダ」。マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」、レオンカヴァロ「道化師」、プッチーニ「ラ・ボエーム」「トスカ」「蝶々夫人」。フランス・オペラではオッフェンバック「ホフマン物語」、グノー「ファウスト」、トマ「ミニヨン」、サン=サーンス「サムソンとデリラ」、ドリーブ「ラクメ」、ビゼー「カルメン」、マスネ「タイス」。そしてロシア・オペラがルビンシュタイン「デーモン」、ダルゴムイシスキー「ルサルカ」、ムソルグスキー「ボリス・ゴドゥノフ」「ホヴァンシチーナ」、チャイコフスキー「エフゲニー・オネーギン」「スペードの女王」というものであった。そのうち「カルメン」は来日のたびに複数回、舞台に上げている。最初の2回には、のちにニューヨークのメトロポリタン歌劇場にスカウトされるイーナ・ブルスカヤというカルメン歌手が所属しているという自信もあったのだろう。また作品それ自体の日本での人気も特別だったらしい。実際、芥川龍之介は第1回公演のブルスカヤに刺激を受け、1926年に短編小説「カルメン」を書いている。

          演目をざっと見てイタリア、フランスものはポピュラーな作品が並んでいるが、ロシアものには、その後日本での上演の機会のない作品も少なくない作品も含まれている。ストロークの発想がアジア・ツァーに重点があって、上海租界を含めて東アジア在住の欧米人を主な対象だったと考えれば、敗戦の同盟国のドイツ、オーストリアの作品を外し、また故国を離れたロシア人向けに演目を考えた、ということはできよう。でも、経緯はそうだとしても日本の聴衆の多くは、一部ロシア語で歌われたイタリア・オペラよりもムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノフ」への感動を隠さなかったようだ。

          さて、この4回に及ぶロシア大歌劇団の来日公演の間の1925年(大正14年)4月にもう一つ重要なイベントがあった。それは山田耕筰指揮による歌舞伎座での日露交歓交響楽演奏会。東支鉄道交響楽団(在ハルピン)と日響の合同演奏会のことである。日本人が国内で初めて本格的なオーケストラの響きを聴くことができたということである。

          山田耕筰は14年4月松竹の後援によって、ロシアの音楽家33名を招聘して日響楽員と併せて「日露交驩交響管弦楽演奏会」を14年4月26日から4日間東京歌舞伎座で開いた。この演奏団体に参加したロシアの音楽家たちは、ハルピン在住者24名、ロシア本国から許可を得てきたもの9名からなり、第1ヴァイオリン第3席トラフテンベルクはモスクワ交響楽団の幹部団員。フルート兼楽団監督のウェルホフスキーはレニングラード国立交響楽団並びに国立マリンスキー歌劇場の楽団監督兼国立音楽学校教授、チェロ首席ベッケルは19歳だがレニングラード音楽学校を最優等で卒業し「チェロのハイフェッツ」と呼ばれた独奏者であった。

          さらに日本にとって大きな意味をもったのは、次席コンサートマスターのヨゼ・ケーニヒ(1875-1932)と首席コンサートマスターのニコライ・シフェルブラット(1885-1938)である。

         ケーニヒはプラハに生まれ、プラハ音楽院でヴァイオリンを専攻し、アントニン・ドヴォルザークに師事。1905年サンクトペテルブルクのマリンスキー劇場管弦楽団のコンサートマスターに迎えられ、革命後の1925年までその任についていた。1925年4月の日本公演のあと、改めて同年11月には日本放送協会の招きに応じて来日。日本交響楽団の指揮者も兼任しながら新交響楽団の指揮をするに至った。彼の来日により、我が国のオーケストラ技術、とくに弦楽パートが格段の向上を示したことは良く知られている。不幸なスキャンダルがあり、1929年6月に惜しまれて帰国し、満州国ハルピンに滞在したが1932年同地において死んだ。彼のあとを継いだのが、ニコロ・シフェルブラット (1887-1936)である。彼はロシアのヴィルナの生まれで、1906年にチフリス音楽学校を卒業した後、ドイツに留学し、ヘンリ・ペトリに師事。帰国後、サンクトペテルブルクでレオポルド・アウアーに師事した。音楽院卒業後、ナロードヌイ・ドーム管弦楽団のコンサートマスター、モスクワ交響楽団の独奏者兼コンサートマスターに就任していた。1925年の日本楽旅から帰国後、モスクワ交響楽団の独奏者兼首席奏者に就任した。改めて、1929年8月新交響楽団の指揮者として招かれ来日。先任のケーニヒの跡を継ぎJOAK専属指揮者として大いに才能を発揮した。彼は、東京で病を得て死去し多摩霊園外人墓地に埋葬されている。

          このように、日本の洋楽界の飛躍的展開にロシアは大きく関わっている。革命で祖国を離れた音楽家たちを含めて、改めてロシアの音楽文化の厚い人材と彼らから受けた影響の大きさや深さとを思わざるを得ない。

          (紙数の関係で洋楽史の部分的指摘にとどめたが、いうまでもなく、2006年から開始された「ロシア文化フェスティバルIN JAPAN」において、ロシアの代表的交響楽団、ソリストらが来日・出演し、市民に感動をあたえていることは周知の事実である。)