日本歴史における「ロシア」

日魯から日露へ―ロシアの呼称―

          保谷 徹

                  今から三〇年以上前になる。『歴史評論』の「言葉から歴史を考える」という特集号に、「日魯から日露へ―ロシアの呼称―」という小論を書いたことがある1。その後まもなくして、新たな関係史料を発見していたが、それを追加発表することなく時が流れてしまった。                   近年、このテーマに取り組む方もいらっしゃるようなので、あらためて続編を書き残しておきたいと思う。
 ロシアは、モスクワ大公国に由来するモスコビヤ(ムスカウベヤ)として近世の日本でも知られており、日本から遠く離れた「大寒国」と説明された(西川如見『増補華夷通商考』一七〇八年)。シベリア、カムチャッカを経て日本近海にロシア人が現れるようになると、このモスコビヤが「ヲロシャ」を国名として「大世界の一半を保つ」大国であることに注意が向けられた(工藤平助『赤蝦夷風説考』一七八三年)。ロシアの頭字エルの音が強く響いて、その前に母音があるように聞こえたため、オロシャと呼ばれることが多く、中国でも「俄羅斯(ウォロス)」の字をあてた。
 ロシアを示す漢字表記としては、この俄羅斯をはじめ、鄂羅斯、亜魯済亜、烏魯舎、魯細亜など様々な字が用いられたが、蘭書を翻訳した初のロシア地誌『魯西亜志』(桂川甫周、一七九三年)のあたりから「魯西亜」表記が一般化するようだ。幕府の外交史料集として編まれた『通航一覧』も「魯西亜」とした。幕末に来航したプチャーチンは、「大魯西亜国御前大臣布恬廷」と記した漢文書翰を持参し、幕末の条約もまた「魯西亜」で表記された。
  ロシアを示すこの「魯」字表記は明治政府にも継承され、一八七四(明治七)年の七月頃からロシア側の表記が「露」字に変わり、日本側もこれに応じて、翌年からは統一的に「露」の字が用いられるようになっていくことを前稿では指摘した。
漢学者で歴史家の重野安繹は、この魯字表記について、一九〇四年の講演で次のように発言している2。
 日本では魯の國の「魯」であります。それを明治五六年頃でありましたか、向ふから外務省へ通報いたしまして、魯の字は露の字に變へろ、魯と云ふのは魯鈍の魯の字であって、字が惡るいから露の字に變へろと云ふ照會がありまして、所謂露の字を用ゐます。
 魯字から露字への変更は、魯が魯鈍の「魯」であることを嫌ったロシア側から照会があり、明治五、六年に変更したというのである。では重野はこの情報をどこから得たのだろうか?
 重野は、筆者が属する東京大学史料編纂所の明治期の大先輩にあたる。史料編纂所は、「日本書紀」に続くいわゆる「六国史」のあとを受けて、『大日本史料』や『大日本古文書』といった日本史の基幹史料集編纂をおこなっている。一八六九(明治二)年に明治政府のもとで近代修史事業を命じられ、修史局・修史館の時代を経て、帝国大学に移管された歴史をもつ。そこで、研究所の過去の記録、とくに修史局(一八七五~七七年)・修史館時代(一八七七~八六年)の史料群をあたったところ、関係史料が出てきたのである。以下の史料は一八七七(明治一〇)年五月の「修史館日記」である。記主は月番館長の川田剛であった3。
  〈五月四日条〉
 (朱書)「丙第六十五号」

           一、外務省へ、魯国ノ魯字ヲ露字ヘ改メル年月日入用ニ付取調回答有之度、且右ニ関係之往復書等有之候ハヽ暫時致借用度云々照会書送付候事

           〈五月七日条〉
 (朱書)「丙第六十五号」

            一、外務省ヨリ本月四日丙第六十五号ヲ以テ及照会候魯国之魯字ヲ露字ニ改ルは、明治七年七月頃、同国公使館ニ於テ改ル方可然トノ事ニて、彼是書面往復等無之ニ付、月日判不致候旨回答有之候ニ付、第三局甲科ヘ送付候事

         これは、修史館から外務省に対して照会書を送付し、その回答書を得たという記録である。回答は「第三局甲科」へ回されているが、これは維新後の歴史を編纂する担当部署である。
 では、外務省からの回答書はいかなるものだったのだろうか。近年、シャルコ・アンナさんが外務省外交史料館でこの回答書写を発見し、一連の論稿を発表されている4。シャルコさんがご覧になったのは、一九二六(大正一五)年のタイプ打ちの写本であり5、細部に異同があるようだ。この原本も修史館の記録の中に存在する6。

               魯国之魯字ヲ露字ニ改メ候儀ニ付、丙第六十五号本月四日附ヲ以御照会之趣致承知候、右ハ明治七年七月頃於同国公使館魯ハ魯鈍之熟字アルヲ以テ嫌ヒ候趣相聞ヘ、交際上彼ノ悦ハサルヿハ改メタル方可然トノ見込ニ而、其以来露字相用候、元ゟ訳字音通之儀ニテ、彼是議論書面ヲ以往復スヘキ程ノ事ニハ無之ニ付、何月日ゟ判然改正シタルトノ記録ハ無之候、此段及回答候也
十年五月五日                 外務書記官
  修史館長
  川田一等編修官殿

                 これによると、魯字を露字に改めたのは一八七四(明治七)年七月頃、ロシア公使館から魯は魯鈍の魯であると嫌悪する意向が伝えられ、外国との交際上、相手方が悦ばないことは改めるべきだと考えて、露の字を用いるようになったというのである。ただしもともと訳字・音通のことなので、書面のやりとりをするほどのことではなく、切り替えた月日の記録はないと説明されている。
 では一体いつ頃この変更があったのか、また、なぜロシア側が露字を選択したのか、最後にもう一度確認してみよう。
 外務省外交史料館所蔵「在本邦露国公使領事来翰」をみると、最初に「露」の字を用いたのは、一八七四(明治七)年七月一二日付のロシア公使館訳官マレンダの書翰訳文であるようだ。ロシア語正文と一緒に提出した和訳文であると思われる。同年六月に着任したストルーヴェ公使も九月一二日付で「露」字を用いた和訳文を送っている。翌一〇月一日からは、「露国公使館」と名前が入った罫紙も使用されるようになる。
 橘耕斎とゴシケヴィッチによる日露辞書『和魯通言比考』(一八五七年)を見ると、「魯鈍」(ろどん)の項目があり、「тупоумный‚ глупецъ」すなわち〝愚かな・愚か者〟にあたるロシア語が示されている。ゴシケヴィッチはその後箱館領事をつとめる人物であり、ロシア側は、「魯鈍」の意味とその漢字が自国の表記に使われていることをこの当時確かに知っていたのである7。一方、「露」(ろ)の字については、「poca」すなわち〝つゆ〟とのみ説明され、悪いニュアンスはない。それどころか、日本語では〝はかない命〟を指す「露命」(ろめい)が、「жизнь」すなわち〝生命〟とのみ説明されているのである。ロシア語の「露(つゆ)」を示す「poca」が日本語のニュアンスと異なり、〝さわやか〟で〝生命力ある輝くツユ〟を指すことは、前掲シャルコ論文でも指摘されている。さらに、その発音が「ロシアPoccия」そのものに通じるために、好んで選ばれたのではないかというのである8。
 以上、日魯から日露へ、ロシアの呼称についていくつかの史料を駆け足で紹介した。漢字表記ひとつの問題ではあるが、相手が悦ばないものは改めようという配慮こそが原点であったことはいささかホッとするのではないだろうか9。

注: 

        1 『歴史評論』四五七号、校倉書房、一九八八年。なお、当時は旧姓・熊澤で執筆。
2 重野安繹「幕府時代魯人北海之関係」(一九〇四年三月一三日東京学士会院講演)(『重野博士史学論文集』中、一九三八年)
3 東京大学史料編纂所蔵。当時の修史館は総裁伊地知正治のもと、重野安繹・川田剛・長松幹・長炗(三州)・塚本明毅の五人の一等編修官が月番で館長をつとめていた。
4 シャルコ・アンナ「音訳地名の表記における漢字の表意性について―ロシアの国名漢字表記を例として―」(『早稲田日本語研究』二五巻、二〇一六年)、同「ロシアの呼称・表記の変遷史に見る日露関係」(中村喜和・長縄光男・沢田和彦編著『異郷に生きるⅥ―来日ロシア人の足跡』成文社、二〇一六年)。
5 外務省外交史料館所蔵「各国国名及地名称呼関係雑件」。
6 東京大学史料編纂所所蔵「修史局雑綴」六。外務省罫紙を用いた回答書の原本である。
7
 「魯」(ろ)自体は「икра」すなわち〝キャビア(魚卵)〟の固有名詞と説明されている。

        8 重野は「日露と云ふ字は、日が出れば露は乾くと云ふことで、最も戦争には味方に取って吉兆なことで、向ふでは忌むべきことでありませう」と述べている(前掲講演録)。日露戦争の最中の発言である。もっとも、旧・日魯漁業(一九一四年設立)は「「露」という文字は「はかないツユ」に通じて縁起が悪い反面、日魯とならべると二つの日という文字が魚をはさむので、「毎日毎日魚がとれるという意味になって縁起が良い」」として魯の字を採用したそうだ(『日魯漁業経営史』一九七一年)。
9 同時期に、ペルーを示す「秘魯」も「秘露」に変更された。ただし、同国の表記はもともと「白露」も用いられていた。ロシアの漢字表記に連動したものと考えられることを付け加えておきたい。