――九州地方にはロシアとゆかりの深い長崎があり、レザーノフ、プチャーチン寄港の際に数々の文明がもたらされ、史跡があります。

 

 

「剣の舞」

「バラの乙女の踊り」

 

作曲=アラム・ハチャトゥリアン

指揮=アレクサンドル・ラザレフ

ボリショイ交響楽団

          1804年(文化元)、ロシア使節レザーノフの長崎来航時の史跡は、「気球飛揚の地」の碑と「梅ケ崎ロシア仮館跡」の説明板にみることができます。稲佐にある悟真寺はプチャーチン来日時の宿舎として利用されました。1858年にコレラで亡くなった20人のロシア水兵を埋葬するために、ロシア人墓地が造られました。稲佐悟真寺(いなさごしんじ)国際墓地と呼ばれる広い墓地の一角にはロシア正教風の白い礼拝堂が建てられています。1871年(明治4)、日本で初めて長崎―上海、ウラジオストク間に海底電信線が開通し、日本と世界が即時に情報交換できるようになりました。その記念碑もあります。又、グラバー邸南東角に隣接するロシア帝国領事館跡地については複雑な国際問題がからんでいるものの、和解の道が探究されています。

 

プチャーチン来航が日本鉄道の曙(佐賀・長崎)

                 1853年(嘉永6)7月、ロシアのプチャーチンは、軍艦4隻を率いて長崎に来航、幕府に開国を要求しました。肥前藩主鍋島斉正は藩士の本島藤太夫に命じ、1853年(嘉永6)8月18日、24日、1854年(嘉永7)1月4日、幕府使節と共にロシア軍艦を見学させました。この時、本島は肥前藩精錬方中村奇輔を伴っていましたが、初めて蒸気機関車模型を見て驚いています。同藩精錬方では中村奇輔、田中儀右衛門、石黒寛二らが蒸気車模型の製作を開始、安政2年8月には「小蒸気船雛形」「蒸気車雛形」の製造に成功しました。この模型は今も交通博物館に所蔵・展示されています。日本において、模型ではない本物の蒸気車が初めて運行されたのは、1858年(安政5)、長崎飽ノ浦(あくのうら)でした。又、文久の終わりから慶応の初めにかけて、長崎大浦海岸で1両の炭水車付蒸気車が運転されています。これは1865年(慶応元)7月22日のイギリスの新聞で報道されています。新橋―横浜間の運行はそれから14年後の1872年(明治5)のことです。

 

日本最初のロシア語通訳・志賀浦太郎(親朋)墓碑(長崎市)

                 志賀浦太郎(親朋、1842~1916)は長崎稲佐の浦上淵村の庄屋の子として生まれました。浦太郎は17歳のときにロシア語の勉強をはじめ、アスコリド号乗組員のムハーノフとエトリンの2人にロシア語と日本語の交換教授をしました。箱館のロシア領事館でロシア語を体得し、箱館奉行所で武士にロシア語を教え、外務省では露国親王アレクセイ・アレクサンドロヴィチ大公来日に際しては明治天皇との対面の席の通訳をしました。1873年(明治6)2月露国日本公使館在勤を命ぜられ、樺太千島交換条約交渉では、浦太郎と市川文吉で通訳を勤めました。1877年(明治10)1月外務省退職後は長崎に帰り、1883年(明治16)長崎県会議員、1898年(明治31)裁判所通訳を勤めました。1916年(大正5)9月21日死去しました。

 

ロシア人墓地(長崎・小倉・久留米) 

                 九州には長崎、小倉、久留米にロシア人墓地があります。とくに、長崎には、悟真寺境内に日露戦争戦死者203基が存在します。ロシア正教の礼拝所があります。2019年4月18日、ロシア人墓地とオランダ人墓地の修復工事が完了し、ミハイル・ガルージン駐日ロシア連邦大使とアルト・ヤコビ駐日オランダ大使が出席して、合同の完成式がおこなわれました。

ステッセル将軍一行上陸の碑(長崎市)

                  日露戦争において、乃木希典大将とロシアのアナトーリィ・ミハイロヴィチ・ステッセル将軍が旅順開城の交渉をし、ステッセル将軍とロシアの将兵は、1905年(明治38)1月14日、長崎に上陸しました。この上陸の碑が、2010年(平成22)7月に長崎日ロ協会によって、長崎市丸尾町の川岸に建立されています。

                 1905年の日露戦争では、対馬沖15キロの地点で日本海海戦がありました。殿崎公園には日露友好の記念碑が建てられています。茂木浜には引き上げられたナヒモフ号の大砲が置かれています。芋崎砲台、竹敷要港、弾薬庫など戦争史跡が多く、対馬は要塞の島でした。美しい浅茅湾を臨む海辺に「文久元年魯寇之碑」が建てられています。1861年(文久1)2月、ロシア艦船ポサドニク号(ビリリョーフ艦長)が対馬の芋崎に投錨、6カ月間占拠しました。幕末の国際情勢のなかで各国は国境の島である対馬を重要な地点とみていました。ビリリョーフ艦長は芋崎の租借を要求してきましたが、租借は認められず、退去を迫られました。イギリスが幕府に助力してポサドニク号は退去しました。井戸、風呂場跡、波止場、ドック跡などロシア人が造った生活施設はいまでも残されています。「大船越瀬戸堀切由来の碑」「忠勇義烈碑」「松村安五郎の墓」があります。

 

                安藤おきよは、長崎県五島列島の出身で、若い娘でありながら日露戦争で生命をかけて国のために尽くした女性の一人です。彼女は16歳のときに漁船で長崎に行き、大浦のロシア病院長宅の子守に雇われ、ロシア語は子どもから習いました。病院長は大連に転勤したために、請われて一緒に大連に渡りました。1904年(明治37)、東郷辰二郎少佐は陸軍大佐の命で、義州で露軍監視をすることになり、安藤おきよにロシア語通訳として同行を求めました。おきよは日本軍の役に立つならと無給で快諾しました。敵前での厳しい諜報活動を展開しましたが、包囲され全員捕虜となり、メドヴェージ捕虜収容所に連行されました。1906年(明治39)、彼女は釈放されドイツ汽船で帰国しました。彼女はそのときまだ24歳でした。日本の新聞は洋装の色白の丈の高い美人で外国語の会話が上手であると報道しました。福江の宗念寺に「清昭院日露通訳大姉」と刻した戒名塔があります。彼女は国家に貢献したにもかかわらず現地臨時雇いの無給通訳ということで戦争の行賞はありませんでした。戦争の舞台裏にはシベリア・満州で生き抜いた日本人女性、からゆきさんたちの国家にたいする献身的協力があったのです。

                   石光真清は1868年(明治元)熊本に生まれました。軍人となり、日露戦争前後に満州やシベリアで対ロシア諜報活動に従事しました。石光の波乱の生涯は、『城下の人』『曠野の花』 『望郷の歌』『誰のために』の4部作(毎日出版文化賞受賞)に描かれています。これらの作品は長男の石光真人が残された膨大な手記・資料を整理し編集したものです。15歳で上京、陸軍幼年学校に入り、日清戦争では台湾に出征、希望していたロシア留学は参謀本部によって許可され、1899年、32歳の石光は妻子をおいてウラジオストクに出発、留学地はロシア軍のシベリアにおける最大の根拠地ブラゴベシチェンスクでした。アムール州のボリシェビキの最高指導者F・N・ムーヒンから贈られたクラスノシチョーコフのステッキは遺品として保管されています。1942年(昭和17)、76歳で生涯を閉じました。石光真清生家・記念館は熊本市の本山に。墓は東京の本願寺築地別院和田堀廟所。

シベリアのからゆきさんと島原の大師堂(島原市)

                ロシア艦船が幕末の長崎に入港、越冬したことにより、日本人はシベリアに最初に渡航しはじめたのは幕末から明治初期でしたが、「シベリアのからゆきさん」の出現は1870年代です。1873年(明治6)のウラジオストクの50名の日本人居住者は、おおよそ商業10人、各種労働10人、からゆきさん25人、女郎屋経営者5人という内訳でしたが、1880年(明治13)から日本人は毎年増加し、1897年(明治30)には3000人を超え、日露戦争開戦期は約5000人が居住し、それに伴いからゆきさんも増加しました。「シベリア出兵」の時期も日本軍のいる間は、「浦塩日報」が発行されたり、居留民も7000人に達していたが、1922年(大正11)の日本軍撤退により、日本人居留民もほとんどが帰国しウラジオストクの日本人社会は幕を閉じ、からゆきさんも消滅しました。シベリアのからゆきさんを根拠ずける史跡は、島原市の理性院大師堂にある天如塔および玉垣、石柱にみることができます。木造の天如塔の周囲に8体の石仏が等間隔に内側を向いておかれています。その台座部分にウラジオストク在留の寄進者の氏名が彫られていますが、それらの人々はからゆきさんでした。周囲にある石柱にも「ウラジオ信者中」や「ニコリスク」などの文字が書かれています。今、その木造の塔は白蟻に蝕まれ、台風の被害にもあい、腐朽が進んでいます。貴重な文化財としての修復、保存が切望されます。

広瀬神社&広瀬武夫記念館(竹田市) 

   大分県竹田市に日露戦争で殉死した広瀬武夫を祀る広瀬神社があります。神社の側に広瀬武夫記念館があり、広瀬の37年間の短い生涯の遺品を見ることができます。広瀬は1891年(明治24)のロシア皇太子襲撃・大津事件を契機にロシア研究を志したものとみられます。1897年(明治30)6月26日ロシア留学を命じられ、8月8日横浜港を出発、9月26日ペテルブルグ着で、ロシア語学習を軸とするロシア生活を開始、1898年(明治31)4月25日付けで留学を免じられ、ロシア駐在を拝命、アリアドナ・コヴァレフスカヤと親交を深めました。1902年(明治35)1月16日ペテルブルグ発でシベリア鉄道および馬橇でシベリアを踏破、3月4日ウラジオストク着、1902年(明治35)3月28日帰国します。日露戦争の1904年(明治37)3月27日旅順港で戦死、享年37歳でした。

チャイコフスキーに学んだケーベル博士に師事した滝廉太郎記念館(竹田市)

                   「荒城の月」「箱根八里」などを作曲した滝廉太郎は、1879年(明治12)8月24日に東京・芝区に生まれ、1898年(明治31)7月に東京音楽学校専修部(本科)を卒業し、同年9月に研究科に入学、ラファエル・フォン・ケーベル博士に入門してピアノと作曲を学んでいます。モスクワ音楽院を卒業しているケーベルはピアノをニコライ・ルビンシテーイン、作曲法をチャイコフスキーに師事していました。滝廉太郎はチャイコフスキーの孫弟子となります。1900年(明治33)6月にピアノおよび作曲研修のため、22歳の時に3年間のドイツ留学を命じられました。滝は出発前にケーベル博士からヴィシイ・シグナル教授、リヒテル教授、タイヒ・ミューラ教授の3人に宛てた紹介状をいただいています。1901年(明治34)4月6日に横浜を出港、10月ライプチッヒ国立音楽学校に入学、不幸にして滝は病気になり、1902年(明治35)7月10日帰朝命令、10月17日東京へ帰着、12月大分に帰宅しました。同郷の広瀬中佐はロシア滞在しており、2人で欧州で会う約束をしていましたが実現しませんでした。1903年(明治36)6月29日大分にて死去しました。滝廉太郎記念館、銅像、「荒城の月」詩碑は竹田市にあります。

                   ロシアの文豪イワン・アレクサンドロヴィチ・ゴンチャローフは『平凡物語』『オブロ―モフ』『断崖』の長編三部作で知られていますが、井上はこれらの三作品の他ゴンチャローフの『フリゲート艦パルラダ号』(1858)の日本関係の部分を『日本渡航記』として訳出し、1941年岩波書店から出版、いずれも不朽の名訳と言われています。又、軍艦ディアナ号艦長ワシーリ―・ミハイロヴィチ・ゴロヴニンの『日本幽囚記』全3巻も出版しており、これらの書は、日露交流史研究のうえで必見の資料となっています。井上は1900年に福岡県久留米で生まれ、福岡県立中学明善校(現・明善高校)を卒業後、ハルビンの日露協会学校(ハルビン学院)に入学してロシア語を学びました。戦後、活発な文筆活動とともに、ロシア語教育普及、友好平和運動に尽力しました。1959年(昭和34)没。久留米市の正源寺に井上満文学碑があります。

ハチャトゥリアンの弟子、寺原伸夫記念碑(宮崎市) 

                 巨匠アラム・ハチャトリアンの日本人唯一人の弟子である作曲家の寺原伸夫は、1928年(昭和3)に宮崎県延岡市に生まれました。1954年(昭和29)26歳のときに本格的に作曲の勉強をするために上京し、間宮芳生(まみやみちお)、清瀬保二(きよせやすじ)に師事、他方でうたごえ運動に参加し関鑑子(せきあきこ)と出会います。1954年~64年にかけてうたごえ運動の中で百数十曲を作曲、「手のひらの歌」「日本の夜明け」は注目されました。1963年にハチャトリアンが来日してモスクワ音楽院留学を勧められ、1964年36歳で国立モスクワ音楽院に入学、1971年卒業し帰国。和光高校、日本福祉大学に勤めながら、寺原伸夫歌曲集「子と母のために」、カンタータ「機関車」、「マンモス狩は夜明けにはじまる」など作曲。1978年オペラ・ファンタジア「浦島太郎」の名古屋・モスクワ公演をおこないます。管弦楽のための組曲「ふるさとの詩」、「ヒロシマのうた」、チェロとピアノのための「風と光の子守歌」、混成合唱組曲「いのちの讃歌」、歌曲「初恋」、ヴァイオリンとピアノのための「風変りな序曲」などを作曲しました。1998年(平成10)3月10日、70歳で永眠。2001年に宮崎市池内町に寺原伸夫顕彰碑が建立されました。

                   北御門二郎(1913~2004)は、トルストイ主義者、徴兵拒否者、絶対非暴力で知られていますが、熊本県水上村(みずかみむら)で農業に従事しながら文豪トルストイの研究と翻訳を生涯続けた人物です。東大在学中の1936年(昭和11)ロシア語と文学の勉強のためにハルビンに行き、白系ロシア人と交流、戦争一色の時代の日本軍の中国人への残虐行為に衝撃を受けトルストイの「絶対的非暴力」への思いを強めます。1938年(昭和13)日中全面戦争となりましたが、非戦の立場から徴兵検査をボイコット、母に連れ戻され1日遅れの検査を受けるが、徴兵免除、世間の冷たい視線を逃れてトルストイのように農業に従事するために大学を中退、山奥の水上村湯山に居住します。52歳で初めて『生ける屍』『懺悔』『イワンの馬鹿』を翻訳し出版、60歳を過ぎて『アンナ・カレーニナ』『戦争と平和』『復活』を翻訳、この三部作で第16回日本翻訳文化賞を受賞します。2004年(平成16)7月17日91歳で逝去されました。

                  鹿児島の聖使徒イアコフ聖堂は、明治時代に2度にわたって焼失し、大戦の戦災で再度焼失、全信徒によって再建したものです。現在の教会は鹿児島市繁華街天文館まで徒歩で15分と便利なところにあります。人吉のハリストス正教会にはロシアから運ばれた古いイコンが所蔵されています。小高い丘の上にゆったりとたたずんでいます。

鹿児島=薩摩出身の漂流民ゴンザ通りとゴンザ神社 

                  1728年(享保13)、薩摩からコメを大阪へ運ぶ若潮丸が、嵐にあい半年漂流したのち、カムチャツカに到着しました。17名の乗組員のうち生き残ったゴンザとソウザはペテルブルグに連れていかれアンナ・ヨアノヴナ女帝に拝謁しました。漂着から4年余りの間に覚えたロシア語を自在に話すゴンザに感心し、女帝は日本語学校を設立して彼を教師に任命しました。ゴンザは21歳で没する2年3カ月の間に6点の著作を翻訳しました。『新スラブ・日本語辞典』は1万2千語を当時の鹿児島方言で訳しているため、当時の薩摩が再現できます。書かれた年代が特定できる方言資料がまとまって存在しているため、史料的価値は大きい。鹿児島市内の繁華街にはゴンザ通りがあり、串木野(くしきの)市の羽島漁港には羽島崎神社にゴンザ神社とゴンザの石像があります。

 

                  明治・大正・昭和前期において180冊余の著訳書を刊行してロシア文学者として不滅の実績を残した昇曙夢は、奄美大島の加計呂麻島芝(現在の瀬戸内町芝)に生まれました。その業績を称え、芝には胸像と誕生記念碑が建立されています。昇曙夢(本名昇直隆)は1878年(明治11)に生まれ、「鹿児島県大島郡篠川村外61村立大島小学校西校」を卒業、正教神学校(7年制)で学び、同校講師を経て、大阪朝日・中外商業・大阪毎日の新聞社嘱託、内務・陸軍・内閣の嘱託、早大・日大・陸軍士官学校などに勤務、ニコライ露語学院長を務め、特記すべきは祖国復帰のために奄美連合全国総本部委員長、奄美大島日本復帰対策全国委員長として尽力したことです。精力的な翻訳・著作活動は、ロシア文学を軸にロシア・ソビエトに関する社会・民族・文化藝術など対象は広範囲にわたりました。『露国文豪ゴーゴリ』『露西亜文学研究』『露西亜現代代表的作家六人集』『露国現代の思潮及文學』『露国新作家集毒の園』などを刊行、『ロシア・ソビエト文学史』の労作で日本芸術院賞と読売文学賞を受賞しました。1958年(昭和31)11月22日、鎌倉村ケ崎の自宅で永眠しました。

露国ニコラス殿下来鹿記念碑(鹿児島市) 

                 ロシア皇太子ニコライは、1891年(明治24)4月27日長崎に来航し、5月6日に鹿児島を訪問しました。3隻の艦船の入港と同時に21発の祝砲が放たれ、花火21発が打ち上げられました。名山小学校講堂で歓迎集会がおこなわれ、撃剣、棒踊りなどが披露され、島津邸では古式武士踊り、犬追物を鑑賞、陶磁器製造所などで買物を楽しみ、錦江湾をあとにしました。「露国皇太子ニコラス殿下来鹿記念碑」は城山公園にひっそりとたたずんでいます。

永寿丸の漂流・帰還と洋船いろは丸(鹿児島)

                 1812年(文化9)10月、永寿丸は薩摩川内を出航、江戸へ向かう途中に熊野灘で嵐に遭い遭難、太平洋を漂流10カ月、千島に漂着しアイヌに救助されます。乗員25名のうち22名が亡くなりました。その後、カムチャツカ、オホーツクを経て1813年(文化13)7月エトロフ島に帰着しました。木場貞良著『魯西亜漂流紀』、川上親信著『漂海紀聞』 らの記録があります。

                 帰還した永寿丸のロシア漂民である船頭喜三左衛門、のち宅間喜三左衛門がロシア船の構造や航海術をもたらしたことにより、寺師正容(てらしまさかた)の指導で1822年に第一いろは丸を建造しています。1853年の大船建造禁止令解除後の1854年に薩摩藩は西洋型帆船の第二いろは丸を竣工させました。