[日本におけるロシア文学]

           (大木昭男

          日本における近代小説の成立を告げる作品として、二葉亭四迷(1864~1909)の小説『浮雲』(1887~1889)と、森鴎外(1862~1922)の小説『舞姫』(1890)が挙げられる。両者ともに明治維新以後の近代的国家成立過程における新世代青年の内面の苦悶を描いている点で、従来の勧善懲悪物とは異なる新小説の到来を告げる作品である。注目すべきは、両者のロシア小説との関わりである。二葉亭四迷は『浮雲』第二編を発表した直後、ツルゲーネフの『あひヾき』をロシア語原典から翻訳して、「国民之友」誌に発表(1888年7月~8月)したし、森鴎外は四年間のドイツ留学(1884~88年)後、ドイツ語訳からの重訳ではあるが、トルストイの短編『リュツェルン』を『瑞西館に歌を聴く』と題して翻訳発表(1889年11月)している。同世代の作家が、文学活動の出発点にほぼ同時期にツルゲーネフとトルストイというロシアの文豪に関心をもち、それに学んでいることは注目すべきであろう。
 二葉亭は言うまでもなく、日本におけるロシア文学の翻訳紹介の先駆者で、明治時代中頃から日露戦争前後までは「二葉亭四迷の時代」とも言うべきロシア文学紹介の第一期を成している。二葉亭によってロシア語原典から翻訳紹介されたロシア作家は、ツルゲーネフ、ゴーゴリ、ポターペンコ、トルストイ、ガルシン、ゴーリキイ、ポリワーノフ、アンドレーエフ、ゴンチャローフであり、このうち最も多く翻訳されたのはツルゲーネフ作品が9点で、次いでゴーリキイ作品が5点、ガルシン2点、ゴーゴリ2点、アンドレーエフ1点、ゴンチャローフ1点などである。このほかに遺稿としてベリンスキイの評論『美術の本義』と『米氏文辞の類別』がある。二葉亭の評論『小説総論』(1886)は、ベリンスキイの影響によって書かれたものである。さらに、翻訳はされていないが、二葉亭のエッセイや談話からして読まれていたと思われるロシア作家は、プーシキンからゴーリキイに至るまでの19世紀ロシア文学のかなり広い範囲にわたっている。
 この時期は、二葉亭の翻訳傾向に見られるようにツルゲーネフへの関心が高まったのであり、二葉亭の翻訳に刺激された国木田独歩、徳富蘆花、島崎藤村、田山花袋、石川啄木など当時の文学青年の多くがツルゲーネフを愛好し、その英訳本を読みあさり、創作にふけっていた。日本における自然主義文学形成に、このようなツルゲーネフ・ブームが影響していたと思われる。相馬御風(1883~1950)は、明治から大正にかけてツルゲーネフの長編『その前夜』(明治41)、『父と子』(明治42)、『貴族の巣』(明治43)、『処女地』(大正3)を英訳から次々に翻訳している。相馬御風は、このほかアンドレーエフの小説『七死刑囚物語』を英訳から翻訳して「早稲田文学」(明治44年4月)に発表し、同年5月には単行本で海外出版社から出版した。折しもこの年、大逆事件判決と死刑執行がおこなわれたこともあって大きな反響を呼んだ。
 ロシア文学への関心がさらに一層強まったのは、日露戦争(1904~05)前後からロシア革命(1917)前後の時期で、ロシア文学紹介の第二期である。この時期は二葉亭に代わって、ニコライ神学校でロシア語を習得した昇曙夢(1878~1958)が翻訳紹介者として活躍した時代である。1911(明治44)年に籾山書店から刊行された『露国現代代表的作家六人集』と、翌年に新潮社から刊行された『露国新作家集 毒の園』の二冊を注目作品に挙げた源貴志氏は、「曙夢のこの二冊の翻訳集の意義は、それが当時の文学者たちのなかでもとくに優れた部分と問題意識を共有していた点にある」として、「世紀末的な趣味の小説」をその特徴として指摘している(ドラマチック・ロシアin JAPAN Ⅲ「日露異色の群像30」178頁)。参考までに『六人集』に取り上げられた作家と作品名を以下に記しておこう。
 バリモント『夜の叫』、ザイツェフ『静かな曙』、クープリン『閑人』、ソログープ『かくれんぼ』、アルツィバーセフ『妻』、アンドレーエフ『霧』。
曙夢の翻訳活動はその後も息長く続けられ、戦後になると、『ロシヤ・ソヴェト文学史』(1955)を河出書房から出版し、日本芸術院賞と読売文学賞とを受賞した。
 この頃にはドストエフスキイ、ゴーリキイ、アンドレーエフがよく読まれていた。ドストエフスキイに関しては、内田魯庵(1868~1929)がいち早く英国のヴィゼッテリイ版から『罪と罰』巻之一(明治25年)、巻之二(明治26年)を翻訳刊行した。原文は全六編にエピローグがついているが、その内の第三編までであった。この書を読んだ詩人北村透谷(1868~1894)は、「沈痛、悲惨、幽棲なる心理的小説『罪と罰』は彼の奇怪なる一巨人(露西亜)の暗黒なる社界の側面を暴露して餘すところなしと言ふべし」(「女学雑誌」第334号)と評し、主人公ラスコーリニコフの「ヒポコンデリア」に注目した。さらに透谷とも親交のあった島崎藤村(1872~1943)は、この翻訳に刺激されて長編小説『破戒』を書いて自費出版(1906)した。これは『罪と罰』を下敷きにして書かれただけに主題、構想、プロットなど広範囲にわたる影響が見られるが、当時の部落民への差別問題に対して批判的な作品として、日本文学における傑作となったのである。           
 ゴーリキイに関しては、日露戦争後の明治38年~40年にかけて二葉亭が「猶太人の浮世」(原題Каин и Артем)、「ふさぎの虫」(原題Тоска)、「灰色人」(原題О сером)、「二狂人」(原題「昔気質の地主たち」の一部Ошибка)、「乞食」(原題Дед Архип и Ленька)の5編の短編を翻訳している。二葉亭訳や英訳を通してロシア文学に接していた詩人石川啄木は、とりわけゴーリキイ文学を愛読していた。ゴーリキイの『鷹の歌』、「チェルカッシ」、「オルロフ夫妻」、「フォマ・ゴルジェーエフ」、「三人」などの作品に感銘を受けたことが、啄木の日記や手紙に記されている。その後プロレタリア文学運動が活発化するなかで、早大露文科の卒業生、村田春海(1903~1937)がゴーリキイの「母」を1929年に本邦初訳でマルクス書房から発行した。1931年になると、改造社から全25巻のゴーリキイ全集が、新進気鋭のロシア文学者たちによって分担して翻訳出版された。文芸批評分野では、蔵原惟人(1902~1999)が東京外語学校露語科を卒業後、ロシア文学研究を目的として1914年2月から翌年11月までロシアに行き、帰国後は「戦旗」創刊号(1928年5月)に『プロレタリヤ・レアリズムへの道』を発表して、小林多喜二(1903~1933)の創作に影響を与えた。
  大正時代にはトルストイ・ブームが起きた。トルストイについては、すでに徳富蘆花(1868~1927)の先駆的評伝『トルストイ』(1897)が民友社文豪叢書の一冊として刊行されており、1906年に蘆花はヤースナヤ・ポリャーナのトルストイ邸を訪問し、このときの見聞記を『巡礼紀行』(1906)にまとめた。1905年には英訳から内田魯庵(1868~1929)がトルストイの長編『復活』を訳出している。森鴎外も1899年には、『めざまし草』にトルストイを発表し、トルストイの生い立ちから精神的転換期に至るまでの伝記と作品について紹介し、1903年には『妄人妄語』のなかで『戦争と平和』と『アンナ・カレーニナ』に言及し、1909~1913年に「スバル」に連載されていた「椋鳥通信」に家出から死に至るまでのトルストイの晩年を追い続けていた。さらに鴎外は、1913年に『神父セルギイ』をドイツ語訳から『パアテル・セルギウス』と題して訳出している。
  1914年には、島村抱月(1871~1918)脚色・演出による『復活』が芸術座によって帝国劇場などで上演され、女優松井須磨子演じるカチューシャが劇中歌を唄って大評判となり、レコード化されて一世を風靡した。その中で1916年9月には、「トルストイ研究」と題された月刊雑誌が新潮社から創刊され、これが1919年1月まで足掛け4年続いた。
  昭和になると翻訳世界では、英訳などからの重訳の時代はやがて終わり、東京外語学校露語科出身の米川正夫(1891~1965)と中村白葉(1890~1974)が活躍し始め、第三期とも言うべき時代となる。二人ともドストエフスキイとトルストイというロシアの二大文豪に関心を抱いてロシア小説の翻訳に取り組んでいたが、やがて米川はドストエフスキイに、中村はトルストイに専念するようになった。米川は戦争勃発の影響で中断せざるをえなかった個人訳のドスエフスキイ全集を戦後になって1953年、河出書房から新装版18巻全集がついに完結をみた。これは読売文学賞を受けた。一方、中村は1967年に18巻から成るトルストイ全集を河出書房新社から個人訳全集(14巻からは中村融との共訳)を刊行したのであった。
  ソヴェート文学の翻訳紹介については、昭和初期のプロレタリヤ文学運動の最盛期においては蔵原惟人などが中心となって行われていたが、言論統制が厳しくなって中断して、戦後に受け継がれていった。戦後の1945年12月に多数の研究者が集まって「ソヴェート研究者協会」が正式に成立した。このうち「文学・芸術部会」は責任者を除村吉太郎(1897~1975)に決めて研究会を重ね、1946年12月にはソヴェート研究者協会文学部会編として、研究誌「ロシヤ文学研究」第一輯を新星社から出した。この創刊号はゴーリキイ没後十周年のゴーリキイ特集で、蔵原惟人が「発刊に際して」と題して巻頭言を書いており、除村吉太郎「世界文学におけるゴーリキイ」、山村房次「ゴーリキイの『母』への道」と題する記念論文を中心に、他に10人のロシア文学研究者たちの翻訳やエッセイが掲載されている。これ以後のことは『新・日露異色の群像30─文化・相互理解に尽くした人々』を参照されたい。