――最も隣国ロシアに近い北海道から、東北地方にロシア探訪の旅は移ります。江戸時代のロシア漂流民の史跡と、17市町村のハリストス正教会が特徴的です。

 「空ひとつ 海ひとつ」

 

作曲=菅原 良吉

作詞=大友 康二

         北鹿ハリストス正教会聖堂は、秋田県大館市曲田にあります。花輪線で2つ目の大滝温泉駅まで行き徒歩で20分です。秋田杉を加工し聖所の架構法も四方から木製アーチを伸ばしてドームをかけるなど、貴重な木造ビザンチン様式の建物です。建築面積50・7平方メートルで1892年(明治25年)7月31日に建立したものです。大館市曲田地区の信徒・畠山市之助は、東京復活聖堂の施行式に出席し感銘を受け、曲田にも聖堂を建てることを決意し、工事は主教ニコライにお願いし、シメオン貫洞(かんどう)を大工棟梁として派遣してもらい、約3カ月かけて畠山家敷地内に総工費350余円をかけて完成しました。イコン19点は山下りんが描きました。田園に囲まれひっそりと建ち尽くす曲田聖堂は、明治時代の擬洋風建築として文化的な価値が認められ、1966年(昭和41)に秋田県から現存する我が国最古の木造ビザンチン様式教会堂建築として重要文化財の指定を受けています。

 

 

下北半島の多賀丸漂流記念碑(佐井村) 

                 下北半島佐井漁港のしおさい公園にロシア語で刻まれた「多賀丸漂流記念碑」が建っています。1744年(延享元年)12月、江戸に向け出港した多賀丸(1200石積)は、暴風雨にあって遭難、漂流して翌年5月に千島列島オンネコタン島に漂着しました。乗員17名のうち、船主で船頭の竹内徳兵衛を含む7名が漂着前後に亡くなり、生存した10名は当時の首都ペテルブルグに移され厚遇されました。三之助たち5名はロシア正教の洗礼を受け、イルクーツクに開設した日本語学校の教師となったのです。三之助の子アンドレイ・タタ―リノフが編集した「レクシコン(露日辞典)」は、18世紀の東北方言の貴重な資料としてロシア科学アカデミーに保存されています。長助の子トラペズニコフは大黒屋光太夫の帰国に際し奔走し、第一回ロシア使節ラクスマンとともに根室、箱館をおとずれています。

ニコライに日本語を教授した秋田藩医・木村謙斎(大館市) 

                 江戸時代の後期になると、蝦夷周辺におけるロシアの進出が著しく、幕府は蝦夷地警備を東北諸藩に命じました。1857年(安政4)に秋田藩佐竹西家も出兵を命じられ、木村謙斎も軍医として蝦夷に勤務しました。除隊後再度箱館に渡り、1872年(明治5)まで11年間滞在しました。箱館では医業のかたわら、私塾も設けて蝦夷地警備の武士に漢籍を講じました。ニコライは毎日のようにこの塾に通い熱心に勉強しました。日本語・日本史・儒教・仏教などの知識は謙斎から学んだものです。謙斎一家が函館を去るときにニコライはコップ3個とフォーク1個を謙斎に贈りました。西洋茶碗(コップ)と西洋箸(フォーク)をいれた箱には、「元治元年甲子四月於箱館魯西亜旅館魯西亜僧官ニコライ与之木村光永」と書かれています。謙斎は子弟教育のための私塾と大館病院設立のために尽力、1883年(明治16)69歳で生涯を閉じました。

                 報效義会鼎浦丸遭難の碑は、青森県八戸市鮫町大久喜海岸の小高い丘に建っています。台座を含め4メートルの高さになる碑の裏側には、艇長森山小一郎以下9名の遭難者の氏名が、明治26年5月24日という日付けとともに刻まれています。遭難した鼎浦丸の乗組員は、元海軍大尉郡司成忠(しげただ)(1860~1924)が千島の拓殖と守備を目的として組織した開拓団、報效義会の会員でした。碑の前方約500キロメートル先にはシコタン島があります。

中川五郎次生誕の地之碑(川内町) 

                 日本で最初にロシア経由の牛痘種痘法(ぎゅうとうしゅとうほう)を伝え、実施した中川五郎次は松前で活躍しましたが、生誕地は南部藩領下北半島の川内村で、1768年(明和5)に生まれました。現在、青森県下北郡川内町はむつ市に編入され2004年(平成16)9月に役場新庁舎を新築し、敷地の一角に「中川五郎治生誕地之碑」が建立されました。総重量40トンの記念碑です。むつ市川内の泉龍寺の境内入口左手に五郎次の祖父母、両親の墓碑があり、五郎次の生家があった場所に標柱が建てられています。

                  青森県三戸郡五戸町倉石の高良神社に、1792年(寛政4年)、蝦夷地に来航したアダム・ラクスマンの開国通商を迫る様子を描いた絵馬が存在します。作者は不詳ですが、神社総代の祖先、大沢富右衛門が南部藩の支藩であった三戸藩士、梁田家から寛政6年正月に寄進されたものとされています。題名が「異之国人図」、「赤人十二人松前城エ渡来服紗ㇵ羅糧々非計」と記され、9人のロシア人の職務と服装が一目瞭然です。

                 1917年の年のロシア革命以後、1925年の日ソ国交樹立(日ソ基本条約の調印)を経て、外国との文化交流を促進する全ソ対外文化連絡協会(VOKS)が創立(1925年8月8日)される中で、日本にも日露芸術協会(1925年創立)、ソヴェートの友の会(1931年創立)、日ソ文化協会(1932年創立)があいついで活動をはじめましたが、いずれも秋田雨雀(1883~1962)が代表を努めていました。作家、戯曲家、児童文学者の秋田は1927年(昭和2)9月にロシア革命10周年記念祭のソ連に招待され、モスクワで小山内薫と合流、VOKSの会合にも出席しました。帰国後は、ソビエト事情の紹介と日ソ文化交流に尽くしてきました。秋田雨雀記念館は黒石市内にあり、雨雀愛用の机や文房具、蔵書、原稿などの遺品を展示しています。

                 戦後、日本とソ連間の政治・経済・文化交流が飛躍的に発展したのは、1956年(昭和31)の日ソ国交回復の実現が大きく作用しました。これにより、日本は国連に加盟することができ、シベリア抑留者が帰国できたのです。その際に、大きく国民運動を盛り上げ、世論を喚起した日中日ソ国交回復国民会議の会長に就任したのは85歳の久原房之助(1869~1965)でした。彼は25歳で日清戦争、35歳で日露戦争を見て、48歳で孫文、57歳でスターリンと会い親しく対話している政財界の大物でした。秋田県小坂町には明治・大正時代の近代建築が並びます。久原は日本一の小坂銅山の基礎を築き、旧小坂鉱山事務所はルネサンス様式の外観を残す建築物で、久原房之助のモニュメントがあります。 

                 ロシア革命後の1921年~22年にロシア全土規模で飢饉になり、とくにボルガ流域、ウクライナ南部、西シベリアにおいて激しく、300万余の犠牲者がでました。秋田県土崎港から大正時代に創刊された雑誌『種蒔く人』は、「飢えたるロシアを救え」とロシア飢饉救済運動をよびかけました。寄付金募集、講演会、リーフレットや絵葉書の発行、慈善鍋、バザーを推進し、全国に運動を広げました。露国飢饉同情労働会の発足、与謝野晶子ら婦人の活動、三浦環(たまき)の帝国劇場での救済コンサートなどに発展しています。秋田市立土崎図書館前に「種蒔く人」顕彰碑が建立され、同図書館に「種蒔く人」資料室が設置されています。

                 江戸時代にたびたび流行を繰り返した痘瘡(天然痘)の予防医療は大きな課題でした。1824年(文政7)、わが国最初のロシア直伝の牛痘種痘者である青森県川内村出身の中川五郎次は、楢林宗建(ならばやしそうけん)が長崎で成功した嘉永2年(1849)より25年も早く行っていたことはあまり知られていません。秋田県でも長崎より6年も早く種痘に成功しています。さまざまな文明がすべて、南から、長崎から伝播したのではなく、北から、ロシアからも伝播したものが少なくありません。松前の医師白鳥雄蔵から習い、秋田藩医臼井禎庵が最初に自分の娘に施種したのが秋田の最初で、天保14年(1843)でした。又、斎藤養達ら一門が種痘術を広めた功績も大きいです。斎藤養達(安克)の墓は、秋田市の宝塔寺にあります。臼井禎庵の墓は鱗勝寺にありましたが移転され不明です。

                  江戸幕府の鎖国政策のさなか、第2回ロシア使節レザーノフが通商を求め、根室や松前に来航し、長崎に迂回させられ国交をかたくなに拒否され続けていた頃のことです。南部藩砲術師であった大村治五平は、幕府による北方警備の命により、蝦夷地へ行きエトロフ島に渡り、ロシア兵と戦闘により負傷し捕虜となりました。その後、帰国するも捕虜となったことの咎めを受け、4年間の蟄居(ちっきょ)を命ぜられ、鹿角市の大湯と宮古市の華厳院に1809年(文化6)1月から10年8月4日まで安居し、62歳に亡くなりました。大村が書き残した『私残記(しざんき)』2巻は、エトロフ島事件の唯一の記録で貴重なものです。彼が葬られている華厳院の参道前には金田一京助博士による「大村治五平翁終焉(しゅうえん)の地」と記された碑が建立されています。

                 岩手県久慈市にある久慈琥珀博物館に展示されている「黄金の華・金色堂」は、バルト産と久慈産の琥珀約55キログラムが使用され、3人のロシア人工芸家が制作した世界最大の琥珀製モザイク画です。世界有数の琥珀産地であるバルト海のカリーニングラ―ドとの交流を通じて、日本有数の琥珀産地である久慈市に琥珀博物館ができました。ほかにもモザイク画「戦争と平和」やモザイク画「こはくの夜明け」などがあります。

                  須川長之助(1842~1925)は、幕末に来日した植物学者カルル・マクシモヴィチの助手として日本の植物採集に半生を捧げた岩手県紫波町出身の農民です。マクシモヴィチは長之助と共に箱館から横浜、長崎へ採集旅行をし、多数の標本、種子を持ってロシアへ帰国しました。長之助はその後も紀伊、四国、九州、東海、山陰、北陸を廻り採集を続け、マクシモヴィチに送りました。長之助が新発見した植物には「チョーノスケソウ」という学名がついています。紫波町城山公園には須川長之助顕彰碑が建立されています。

                  秋田県由利本荘市の露国遭難漁民慰霊碑は、「夕陽の見える日露友好公園」にあります。1932年(昭和7)に遭難・漂着し死亡したニコライ・バクレンコ少年の霊を慰める碑は、1992年(平成4)12月1日に建立されました。碑には大友康二作詞、菅原良吉作曲の追悼歌「空ひとつ、海ひとつ」が刻まれています。夕陽の美しい深沢海岸に位置しており、世界の友好と平和を祈念するにふさわしい場所となっています。

最上徳内記念館(村山市) 

                 最上徳内(1755~1836)は優れた探検家で、1785年幕府最初の蝦夷地調査隊に加わり、クナシリ、エトロフ、ウルップの当時としては最新の地図を作製、千島21島の島名と島順、べニョフスキーの消息などの情報をもたらしました。千島4回、サハリン2回を踏査している最上徳内の業績に注目したのはシーボルトで、かれは著書『日本』で徳内作成の地図を紹介しています。最上徳内記念館は、山形県村山市が郷土の偉人顕彰のために1993年に建設しました。

                  秋田県横手市雄物川町の崇念寺には、プロ野球の大投手、ビクトル・スタルヒン夫妻の白球の墓碑があります。住職・高橋大我の父母である高橋義雄とアントニーナ・ニコライヴナ・アラズモーワも静かに眠っています。スタルヒン夫人はこの夫妻の娘・高橋久仁恵です。義雄とアラズモーワは1919年にシベリアのネルチンスクで結婚、1922年ハルビンでボルガ演芸団を組織して帰国、門司、博多、広島、神戸、名古屋、横浜、四国、関西と廻り、仙台で団を解散して雄物川の崇念寺に帰りました。ロシア革命後の混乱の渦の中で、ユーラシア大陸を駆け抜け、時代に翻弄されながらも激しく生き抜いた高橋一家の波乱万丈の歴史と魂がこの崇念寺に生きています。

日本初のハープ奏者・阿部よしゑ(横手市)

                ショーロホフらロシアの芸術家との幅広い交流と日本にハープを普及したことで知られる阿部よしゑ(1904~1969)は、秋田県横手市出身で、秋田高女を卒業しています。昭和7年からモスクワの日本大使館に勤務。滞在中にオペラ、バレエ、オーケストラなどロシア芸術を貪欲に吸収し、ボリショイ劇場のハープ奏者クセニヤ・エルデーイのレッスンを受けることができました。また、1937年から7年間、パリ音楽院でマルセル・トゥルニエらに師事しました。1944年には同音楽院のコンクールで第一席となり、帰国後は演奏活動のほか阿部ハープ研究所を主宰、日本の音楽学校にハープ専攻科の創設に尽力し、1948年東京音楽学校、49年に東京芸術大学の初代ハープ専任教官となりました。

                  「シベリア出兵」時に、日本のロシア革命干渉反対と日露両国民の友好を訴えた佐藤三千夫(1900~1922)を記念して1981年5月に「佐藤三千夫之碑」が宮城県登米郡(とめぐん)登米町(とよままち)(現登米市(とめし))に建立されました。佐藤は、仕事を捜してウラジオストクに渡り、現地で日本政府の干渉戦争の不当性を見抜き、片山潜の指導のもと、極東・シベリア各地の日本兵にむけて反戦ビラを配布していました。佐藤は1922年、ハバロフスクで死亡しこの地で盛大な葬儀が行われました。

                  最初に鎖国日本の扉を叩いたのはロシアであったことはあまり知られていません。1739年(元文4年)牡鹿(おしか)半島沖に突如異国船が姿を現しました。ベーリング第二次探検隊のマルティン・シュパンベルク指揮するアルハンゲル・ミハイル号でした。これはアメリカのペリー提督による「黒船来航」よりも114年も早かったのです。この「元文(げんぶん)の黒船」来航のときは、互いを観察し、言葉も通じない中、物々交換を試みました。石巻市の網地島の白浜海水浴場の傍らにベーリング没後250年を記念して1991年に「ベーリング像」が建てられました。根組ノ浜(ねくみのはま)の小高い丘に「ベーリング探検隊投錨地の記念碑」が建立されています。

若宮丸漂流民供養碑・世界一周津太夫案内板・オロシア漂流記念碑(石巻・東松島)

                  1793年(寛政5)11月27日、乗組員16人を乗せた奥州宮城石巻村の米沢屋平之丞所有廻船若宮丸は、コメと材木を積み、江戸に向かう途中いわき沖で時化に遭い、約半年間北太平洋を漂流したのち、翌寛政6年5月10日アリューシャン列島アンドレヤノフ諸島の小島に漂着します。その後、イルクーツクへ送り届けられた漂流民のうち4名は、1804年ロシア使節レザーノフに連れられて日本に帰還しました。遭難した「若宮丸供養碑」は石巻市禅昌寺にあります。帰還した漂流民多十郎・儀兵衛の出身地室浜には、儀兵衛・多十郎の墓(観音寺)があり、鳴瀬町(現東松島市)の教育委員会が建てた世界一周記念碑があります。

                  野口英世記念館には、ロシアの著名な彫刻家、セルゲイ・チモフェーヴィチ・カニョンコフ制作の野口英世銅像が展示されています。これは野口が研究のために所属していたロックフェラー医学研究所のフレクスナー所長が指示して制作したもので、この胸像は米国のロックフェラー医学研究所、福島県猪苗代の記念館と東京の野口記念館(現在はない)に飾られていました。カニョンコフ美術館はモスクワとスモレンスクにあります。野口英世は、アメリカに渡ってから細菌学の本格的研究に取り組み、「人類のために自らの命を犠牲に行った献身的活動」には多くの人々の感動をよびおこしています。

                  大館市の曲田聖堂をはじめ東北地方には聖堂の建築物をもつ教会が17市町村にあります。ニコライから洗礼を受けた伝教師が東北各地で布教し日本で最も信者の多い地域となっています。石巻ハリストス正教会=聖使徒イオアン聖堂は、1980年に竣工した現在の会堂と1879年に竣工した国内最古の木造教会建築として文化遺産の扱いになっている旧石巻ハリストス正教会教会堂と2つが現存します。仙台での伝道は明治6年に始まり、1892年(明治25)にビザンチン様式の白亜の福音聖堂が竣工し、1998年に改築されました。一関正教会には山下りんのイコン画が24点あります。盛岡正教会には13点所蔵されています。 (東北には弘前、秋田、山形、仙台に日露戦争の捕虜収容所がありましたが、ロシア人の墓は仙台市・小松島の常盤台霊園にあります。)