日本語になったロシア語

          大西裕子

         現代の日本語としてすっかり馴染んでいる外来語の中には、ロシア語由来のものが存在する。言葉の受容の歴史にはいくつかの大きな波があり、また、時代と共に世代によってもその言葉からイメージする風景が違って見えている。

         ロシア語由来の言葉が日本語に導入される契機では19世紀の日露交流史、1917年のロシア革命とその後のソビエト政権が依拠した社会主義(共産主義)思想の日本での受容と浸透、そして戦争(日露戦争、二つの世界大戦)などの歴史があり、同時に文学や演劇、流行歌、食や地理学といった文化受容の背景がそこに重なり浮かび上がってくる。

 

 

        1.ロシア革命の波と共に日本に導入されたもの

       ・「アジト」(агитационный пункт、略してагитпункт)

        現在の日本語では、組織的な犯罪者などの潜伏拠点として使われる単語だが、ロシア語本来の意味は、ロシア革命後(アジトの創設は1919年)からソ連政権の「扇動(アジテーション)活動の本部」「大衆政治活動の中心としての政治的啓蒙機関」であった。国民への国威宣揚や党のイデオロギー普及、選挙の宣伝活動にとって大切な拠点として政権を支えた。

        ロシア語からの日本語への借用は、大正デモクラシー(日露戦争後から大正末期、昭和初年にかけての広範な人民諸階層の運動)の中で、社会主義運動が活発化するとともに浸透していった。ではなぜ日本ではこの言葉に「秘密指令本部」や「潜伏場所」といったネガティブな響きが込められたのか。例えば昭和初期には徳永直や広津和郎、小林多喜二たちがその作品の中で、表には出られない「社会主義活動家の隠れ家」の意味で使用している。

        それは、日本でのロシア革命の影響と急速な社会主義運動などの反体制運動に国家が足枷をかけるために制定した治安維持法(1925年~1945年)の網にかからないようにするため、否応なく活動拠点は地下に潜り、その所在を明らかにせず、必要に応じ場を移動する必要があったためである。現在では過激な非合法運動家の潜伏場所としての言葉の意味合いが強まっている。 

        ・「インテリ」(ロシア語:インテリゲンチャ(интеллигенция)の略)

        日本では一般に教養や知識、学問のある人を差す言葉として使われているが、ロシア語本来の「インテリ(ゲンチャ)」は、19世紀の帝政ロシア社会の中で自身が置かれた立場とその責任を自覚した知識人階級(知的労働者階級)を意味した。西欧諸国から遅れた農奴制の残る祖国に対し、その将来を真剣に議論し改革を志す者もいれば、その知識を社会に還元する力がなく無為な生活を送る者もいた。日本では1917年に中沢臨川が「露西亞の女」の冒頭で帝政ロシアには上流社會と農民との間に「インテリゲンチャ」と呼ぶ一階級が在ったと紹介している。ロシア革命後の大正時代に、社会主義思想とともに「インテリ」という言葉は日本で広く普及する。

        日本語における「インテリ」という用語使用の曖昧さを社会学的に考察した丸山眞男の「近代日本の知識人」では、この言葉の日本での受容の変遷が紹介されている。輸入直後はロシア語本来の意味であったものが土着化し日常用語となり広義に使用され、第二次大戦後の教育制度の改革、高等教育の普及とともに「インテリ」は、社会層に関係なく「教養や学問のある人」を形容する用語となり、「一億総評論家」時代に突入したと指摘する。

        また、日本では「インテリ」が社会層の属性で使用される場合、多少の冷笑が含まれた。<理屈ばかり多くて、実行力に乏しい知識人を嘲笑する>形容詞「青白き」を枕詞に付ける自虐的な「青白きインテリ」という表現が1930年代に流行する。自身の無力さを自覚しながらも、萩原朔太郎などは「真のインテリとは、心に熱誠なヒューマニチーを持っている所の、聡明な理性人を意味するのである」とその理想の在り方を謳っている。

       ロシア語の「インテリ」はもともとラテン語の< intelligens >(知識人、思想家、理性ある人)から派生し「人」を差すのに対し、同系のラテン語の< intelligentia >からは英語intellignce(インテリジェンス)が派生し、「知能、聡明、理解力、思考力、知性、理知、情報、諜報(機関・部員)」を表わす。後者は日本ではすでに明治時代に高山樗牛が論文で用いている。 

        ・カンパ

        「カンパ」はロシア語のカンパニヤ(кампания)の略語であるが、その語源は中世のラテン語campus(カンプス:野)であり、そこからフランス語のcampagne(カンパーニ)やポーランド語kampania(カンパニア)が派生した。ロシアにはポーランド語からの「外来語」として根付いた言葉である。英語のcampus (キャンパス)、camp(キャンプ)やcampaign(キャンペーン)も同じ語源である。

        ラテン語のcampusは本来「野・広く平らな地」の意味が転じ、「戦場」「闘争」「(政治的・社会的)活動」と変容していった。「カンパ(ニヤ)」もまた本来の意味である「軍隊生活」が「戦場での軍事作戦」、そして「目標を達成するための組織的運動」となり、そのための「基金募集活動」が「援助金」「支援金」「募金」の意味で日本では使われるようになった。英語のキャンペーンと本来同義であるが、英語には「宣伝・啓蒙活動」の意味が強まり、資金調達活動は含まれていない。

      英語からの音字「キャンパ」ではなく、ローマ字読みの「カンパ(ニヤ)」が日本語に浸透したのはロシアから社会主義思想と共にこの言葉が輸入されたためである。英語の音字が出てくるのは例えば1949年の阿部知二『黒い影』の「何か私たちの為のキャムペインのようなことについて」といった文章が見られるが、それ以上にロシア語の「カンパ」が当時の書籍(特に1930年代の細田民樹や宮本百合子など)や政治パンフレットなどで数多く散見される。主に左翼運動の資金調達の意味である。

 

 

        2大戦後に入ってきた単語

       ・「ノルマ」(норма) 

        本来は、各個人や集団に割り当てられる一定時間内の労働の基準量(標準作業量)を差す言葉である。ラテン語のnorma(定規)が語源であり、そこから英語のnorm(規格、標準、基準、規範)、normal(ノーマル:標準的な、正常な)も派生している。しかし日本では「課される強制的な仕事量」のイメージがあり、中立的な意味合いから程遠い言葉と捉えられている。そこには第二次世界大戦(1939-1945年)後に満州や北朝鮮、千島列島や樺太に残留していた日本人が当時のソ連の捕虜となり、ソ連各地に移送され国家再建のための強制労働を課された史実がもつ辛い記憶が反映されている。抑留者には日々の「ノルマ」が課され、衣食住すべてが劣悪な環境のためシベリアだけでも約6万人がノルマを果たす労働で死亡したとされる。シベリア抑留者の記録には過酷なノルマで心身ともに疲弊し切った日常生活が描かれている。自恃をもち生き抜いた一人長谷川四郎は自身の抑留経験を描いた『シベリヤ物語』(1952年)の中で「たとえノルマが不合理であろうと」と記している。1945年8月に始まった抑留から日本への(集団)帰還は、11年後の1956年12月にようやく終わる。その引き揚げとともに単語「ノルマ」は日本に持ち込まれ流行語となった。1959年8月の『週刊朝日』にはシベリアからの帰還者の間には「1948年、ノルマ、ダモイということばがはやった」との記載がある。

        ちなみに計画経済のソ連では、ノルマは国内産業の各分野にも課されていた。

 

 

        3童謡や演劇から流行った単語

        「ペチカ」「トロイカ」「カチューシャ」は日本では教科書掲載やNHKみんなのうたでも紹介されたポピュラーな曲名としても知られている。「ペチカ」は北原白秋作詞・山田耕筰作曲の日本の童謡であるが、後者の二曲はロシアから来ており、第二次大戦後の1950~1960年代に社会主義運動を広く大衆に親しませ連帯を生む音楽活動としての「うたごえ運動」で盛んに歌われた。

        「トロイカ」はロシア語の数字3を意味し、組織などで3人に権限を分散させ運営する方式や三頭立ての馬車(馬橇)も指す。1911年の志賀重昂『大役小志』には「トロイカ(3頭曳きの馬車)」、1927年昇曙夢訳のトルストイ『復活』に「3頭馬車(トロイカ)」の記述が見られる。ロシア民謡の「トロイカ(原題:ほら郵便馬車が駆けてゆく)」は作詞作曲不明、農奴制の残る帝政ロシア時代の歌であり、本来の歌詞では好きな娘を地主に奪われ悲嘆する青年の歌であるが、1950年代の日本では明るく軽やかな訳詞へ変更されている。

        「カチューシャ」は日本の若い世代では髪飾りやアイドルグループの歌で知られる言葉であるが、もともとはエカチェリーナというロシア人女性の名前の愛称形であり、ロシア歌謡「カチューシャ」(イサコフスキー作詞、ブランテル作曲)はソ連時代に作られ流行した。1938年の初演ではカチューシャが河のほとりで愛する青年を思い歌う場面のみであったが、やがて第二次大戦への戦意と愛国心高揚のために、会えない恋人は出征しており恋人たちは互いと祖国を思い合う歌詞が追加された。車載高速迫撃砲にこの名を付けるほど戦場のソ連兵たちにも愛唱された。日本でも哀調のあるこの曲は流行るが軍事色は払拭されている。近年は日本でゲーム音楽やCM、サッカー日本代表の応援歌、アニメなどで使用され、若い世代にも再び知られている。

        また、トルストイ『復活』のヒロインもカチューシャであり、1914年に島村抱月が脚色した『復活』の芸術座による公演の中でカチューシャ役の松井須磨子が「カチューシャの歌」(島村抱月・相馬御風作詞、中山晋平作曲)を歌い大流行し、当時では珍しいレコードや映画も作られた。

        日本の童謡「ペチカ」は、室内暖炉であり、17世紀に北欧からロシアへ輸入され、開拓使長官が黒田清隆であった明治10年代に北海道へ導入している。

       ※「ペチカ」に関しては、同HPの倉田有佳氏「日本のなかのロシアの生活(衣食住)に詳しいので割愛させて頂きます。

 

 

        4食べ物や食事に関する単語

       ・ウォッカ(водка)

        ウオッカ(водка)は、ラテン語の「生命の水」“aqua vitae”に由来し、ヨーロッパから薬効のある地酒としてロシアへ輸入され、15世紀にモスクワで蒸留精製され生まれた説が有力である。ロシアの歴代皇帝の多くはウオッカを愛しその製造に力を入れ、宴の席や他国への貢ぎ物としても重宝した。日本へも古くは1803年にロシア皇帝アレクサンドル一世の遣日使節が蝦夷地にウォッカを送った記録がある。明治20年文部省編の『露和字彙』には「焼酎」と和訳され、翌年の『和訳英字彙』には「魯西亜の裸麦酒」、明治39年の志賀重昂「樺太境界劃定」(日露国境画定交渉)に、「ウォツカ(露國火酒)」とする記述が見られる。大正10 年の昇曙夢訳のM.ゴーリキー『零落者の群れ』では「ウォーツカ」として登場する。

        1917年のロシア革命により、皇帝の庇護のもと繁栄を誇っていたウオッカ製造者たちはフランス、アメリカやカナダへ亡命、そこで無味無臭無色のウオッカはカクテルベースとして受け入れられ、現在では本国ロシアよりアメリカで飲まれているとも言われる。

       ・「イクラ」(икра)

      ロシア語で「イクラ」は、魚卵の総称であり、サケの卵は「赤い」イクラ、キャビアは「黒い」イクラ、たらこは「鱈の」イクラといったように、色や魚の形容詞をそれぞれ前に付ける。「イクラ」という言葉が日本で使われるようになったのは、明治期に入ってからと言われている。江戸時代から明治8年の樺太千島交換条約後も日本人は北洋のサケ・マス漁でロシア人と交易を行い、その頃にはイクラの製造を知っていたのではないか、あるいは日露戦争(1904~1905年)で捕虜となったロシア人がイクラを作り食べていた際に知ったとの説がある。日露戦争後の1907年に締結された日露漁業協約によりカムチャッカ沿岸のサケ・マス漁は大きく発展し、戦争に勝利した日本は南樺太(現サハリンの北緯50度より南)を日本領とし樺太庁を置き、そこに1918年水産試験場を設立、筋子から卵巣膜を取り除き粒に分け保存の利く塩漬け(日本好みの醬油漬けも)にするロシア式のイクラ製造を開始した。この大正時代にはイクラの樽詰めも始まり、昭和初期には日魯漁業(現マルハニチロ㈱)が缶入り「日魯のイクラ」を製造販売している。

 

 

        5.地理や植生に関する単語

        日本の学校教育の地理で習う北方の植生、土壌や気候を区分する単語「ステップ(短草草原)」「タイガ(針葉樹林)」「ツンドラ(凍土帯、凍原)」は、ロシア語由来である。明治20年発刊の文部省編輯局出版のアーキバルト・ゲーキー 著『地文学(芸氏)』(中学校 師範学校教科用書)にすでにその記載(露西亞ノ「ステッペス」、シベリアノ「トウンドラー」)がある。北極海に生息する「セイウチ」もロシア語由来であるが、語源とされるсивуч(スィヴーチ)は、「トド」、「オットセイ」や「アシカ」を意味し、同じ鰭脚目の海生哺乳類ではあるが、セイウチ(морж : モールシ)には大きな牙があるなど、日本語に訳出する際に外形が似ているがゆえの混同があったと考えられる。