――首都東京には江戸時代そして明治・大正時代のロシア関連史跡が目立ちます。

 

「ヴォカリーズ」

 

作曲=セルゲイ・ラフマニノフ

指揮=アレクサンドル・ソロヴィヨフ

ソリスト(ソプラノ)=リュドミーラ・エリュトキナ

モスクワ国立音楽院室内合唱団

ニコライ堂=東京復活大聖堂(千代田区)

          通称「ニコライ堂」と呼ばれる「ニコライ」とは、1861年(文久1)から1912年(大正1)まで日本に滞在した宣教師です。ロシア生まれ、ペテルブルグ神学大学で学び、当時の在箱館ロシア領事ゴシケーヴィチの要請で領事館付司祭として来日し、日本におけるロシア正教の布教に尽力しました。現在日本ハリストス正教会で「日本の亜使徒大主教聖ニコライ」と讃栄されているその人です。最初の「ニコライ堂」は彼の采配により7年の歳月を費やして、1891年(明治24)に竣工しました。関東大震災で打撃を受け、1929年(昭和4)に修復、1962年(昭和37)に国の重要文化財に指定されました。さらに、1991年(平成3)から1998年(平成10)にかけ大規模な修復工事が行われ、今日の大聖堂の荘厳な姿になっています。

 

 

          明治20年代以降、篤い信仰心と理想主義を心に保ちつつ、農村に在って人生の意義を探求しながら誠実に生きるトルストイとその思想が、若い知識人達の関心を集めました。徳冨蘆花(健次郎)もその一人でした。明治元年生まれで青年時代に受洗し生涯信仰を守りました。兄猪一郎(蘇峰)に勧められ1897年(明治30)に伝記『トルストイ』を刊行しましたが、トルストイの本格的な紹介としては日本初のものです。『不如帰』で文名を確立した後、1906年(明治39)には聖地パレスチナを訪問、その帰途ヤースナヤ・ポリャーナにトルストイを訪れました。帰国後、東京府下千歳村字粕谷の農村に居を構え、ここを「蘆花恒春園」として自然の中に在る生活を営み、1927年(昭和2)死去、恒春園の一隅に葬られました。

 

          幕末から明治にかけてロシアの外務省に勤務した橘耕斎は、ロシア名ウラジーミル・ヨーシフォヴィチ・ヤマートフと言い、晩年は増田甲斎と改名しました。掛川藩士でしたが脱藩し放浪、僧となり下田伊豆の蓮華寺(れんげじ)に寄寓中、1854年(安政1)にプチャーチン使節団のゴシケーヴィチと知り合い、一行の帰国に際し密出国をして露都ペテルブルグに至りました。1857年(安政4)にゴシケーヴィチと協力して最初の本格的な和露辞典「和魯通言比考」を刊行しました。岩倉使節団の訪露を迎え、説得され帰国し、明治政府により芝の増上寺にこもり、ロシア政府の年金で暮らし、1885年(明治18)に65歳で生涯を閉じました。港区高輪の源昌寺に墓があります。

 

 

昭和女子大トルストイ像(世田谷区)

          2000年(平成12年)5月1日、昭和女子大学創立80周年を記念して創立者記念講堂の前にトルストイ像が建立されました。ロシアの作家レフ・トルストイの教育思想に感銘した人見圓吉(ひとみえんきち)、緑夫妻が学校を設立し、その遺志を受け継ぎ人見楠郎はトルストイの教育思想の普及に尽力されてきました。1996年(平成8)に日本トルストイ協会を設立、ロシア教育省やトルストイ学校の幼稚園・中等教育学校との交流、トルストイ博物館との交流、トルストイ展の開催を通じて、トルストイ教育は文字通り昭和女子大学の建学の精神となりました。

 

 

ネフスキー、コンラド、エリセーエフらが滞在した本郷菊富士ホテル跡記念碑(文京区)

         本郷菊富士ホテルは、上野公園で開かれた東京展覧会の外国人客を目当てに1914年(大正3)開業、30年間営業し、昭和19年に売却されました。同ホテルは、ホテルタイプの短期・長期の下宿でしたが、いつも満室状態が続き、過半数はロシア人が占めていました。目立ったのは、亡命ロシア貴族、白系ロシア人たちでした。留学生も多く、ニコライ・コンラド、ニコライ・ネフスキー、オレスト・プレトネル、セルゲイ・エリセーエフらがいました。

 

 

1956年日ソ共同宣言に調印した鳩山一郎銅像・鳩山会館(文京区) 

          1956年(昭和31)の日ソ国交回復を実現した鳩山一郎元首相の邸宅を記念館として公開したものです。1924年(大正13)に洋館が完成、1995年に修復工事をし、2000坪に庭園、桜、バラの花が咲き誇ります。庭には鳩山一郎の銅像が建っています。鳩山一郎首相とブルガーリン首相によって締結された日ソ共同宣言・日ロ国交回復50周年を記念して、2007年(平成19)1月にロシアから寄贈されたもので、モスクワ市近代美術館初代館長ズラーブ・ツェレテーリが制作したものです。

          回向院には、海難供養塔、帆掛け船型供養塔があります。銘文には、伊勢白子 大黒屋光太夫を船頭とする神昌丸が漂流し、ロシアに至り、人々は彼らが溺死したものと思い、7年が経過したので供養塔を建てた、と書かれています。海に囲まれた日本では昔から海難の犠牲が計り知れなかったのですが、回向院は災害、事故死、戦死、牢死者と共に海難による水死者を弔う寺院として存在しています。

          1874年(明治7)海軍中将兼特命全権公使としてペテルブルグに赴き、長年懸案の樺太帰属問題の解決にあたり、1875年(明治8)5月樺太千島交換条約を締結しました。1878年(明治11)7月に露都を出発して馬車にてシベリアを横断、10月に帰国しました。その際に、資源・気候・風俗などを調査し「西比利亜(しべりあ)日記」を残しました。後、明治政府の諸官職や大臣を歴任し、1908年(明治41)73歳で死去しました。駒込の吉祥寺に葬られました。向島(むこうじま)の木母寺(もくぼじ)の跡にある梅若公園に銅像が建っています。

          高尾霊園は八王子市にあり、JR中央線高尾駅北口、京王線高尾駅南口よりタクシーで5分のところにあります。霊園には、亡命ロシア人アレクサンドル・ヴァノフスキー、嶋野三郎の墓があり、哈爾賓学院記念碑がひっそりと建っています。ヴァノフスキーは1874年(明治7)モスクワ南方のトゥーラ県で生まれ、1967年(昭和42)に東京で93歳で生涯を終えています。1921年(大正10)早稲田大学文学部露西亜文学専攻で教鞭をとり、太平洋戦争で専攻閉鎖され退職するまで勤務、戦後は著作活動、語学教授に従事していました。

                   嶋野三郎は1911年(明治44)石川県派遣ロシア留学生としてウラジオストクに渡り、引き続き満鉄留学生としてペトログラード大学に学び、帰国後満鉄でロシア調査の中心的存在でした。嶋野は1982年(昭和57)に89歳で亡くなりましたが、1928年(昭和3)1226ページ、収録語数約12万の露和辞典を完成させています。

                   又、同霊園には哈爾賓学院同窓会によって、1999年(平成11)4月に建てられた「哈爾賓学院記念碑」があります。同学院は、日露協会学校として設立され1933年(昭和8)に哈爾賓学院、1939年(昭和14)に国立大学哈爾賓学院と名称を変え、終戦で廃校になるまでに26期1412名の卒業生を世に送り出しました。

          青山霊園は東京都港区にある東京都立の霊園です。1871年(明治4)の岩倉使節団に随伴した留学生―明治最初のロシア留学生の一人が万里小路正秀(1858~1914)です。江戸時代後期の公卿、万里小路正房の8男が13歳で渡航、10年間ロシア貴族のもとに留学し、帰国したのは1882年(明治15)5月です。正秀はニコライ堂で洗礼を受けて正教徒となります。式部官、主猟官、大膳頭を努め、1884年(明治17)男爵となりました。ロシア人女性マリア・バユノフと結婚したが離婚、野村靖の娘久子と再婚し長男・万里小路元秀をもうけるも離婚(久子は後のロシア大使・本野一郎(もとのいちろう)と再婚)しました。又、1891年(明治24)の大津事件の際はニコライ皇太子の通訳として同行していました。3年後、ニコライがロシア皇帝となる載冠式には日本奉祝代表団に加わりました。正秀は1914年(大正3)6月10日に死去しました。

         沢辺琢磨は、1835年(天保6)に高知で生まれました。幕末の英雄坂本竜馬とは従兄弟どうしです。同じ年の生まれで幼馴染でした。琢磨がニコライ司祭と運命の出会いをするのは幕末の1865年、琢磨30歳、ニコライ29歳でした。1868年(慶応4)4月、まだキリシタン禁制の祖法が厳然として生きていた時代でしたが、禁令を犯して受洗しました。沢辺琢磨と、琢磨に誘われた仙台藩の医師酒井篤礼(さかいとくれい)と南部藩士の浦野大蔵の3名がパウエル、イオアン、イヤコフの聖名を与えられ、弾圧の網をかいくぐり布教活動の道に入りました。1875年(明治8)日本で最初の正教徒琢磨は、日本で最初の正教会司祭となりました。洗礼を受けたいという人々は東北地方を中心に激増していきました。琢磨は1912年(明治45)のニコライの死の翌年6月25日、追うかのように78歳で永眠し、青山霊園に葬られました。

 

          チャイコフスキーの教え子、ラファエル・フォン・ケーベル博士(1848~1923)は、東京帝国大学の哲学教授として来日したが、19歳の時にモスクワ音楽院に入学、ルビンシュテイン、チャイコフスキーに師事しましたので東大で教鞭をとる傍ら上野の音楽学校へ出講、1893年(明治26)にはオペラ「オルフェウス」の日本初演に全曲ピアノ伴奏を行い、西洋の高い水準の演奏を披露しました。1923年(大正12)6月14日逝去、雑司が谷霊園に墓があります。
 市川文吉(1847~1927)は、明治時代のロシア語通訳、外交官です。1865年(慶応元年)、幕府は遣露留学生を送ることをきめ、市川文吉、山内作左衛門、緒方城次郎、大築彦五郎、田中二郎、小沢清次郎の6名が7月28日、箱館からロシア軍艦ボカテール号で出発しました。幕府崩壊に伴い5名が帰国する中で、文吉はロシアに残り、エフィム・プチャーチン邸に住み、イワン・ゴンチャロフからロシア語、歴史、数学などを学び、ワシリーサ・シュヴィロワと結婚しました。1873年(明治6)9月に帰国。文部省七等出仕、東京外国語学校魯語科教授、外務省二等書記官、駐露特命全権公使となり、榎本武揚に随行してペテルブルグの日本公使館に赴任しました。1878年(明治11)榎本とともにシベリアを横断して帰国。1886年(明治19)黒田清隆の欧米視察に通訳として随行、晩年は伊東に住み、1927年(昭和2)に逝去、雑司が谷霊園に墓があります。
 同墓地に眠る瀬沼夏葉(かよう)(1875~1915)は、高崎で生まれた翻訳家・ロシア文学者。1892年(明治25)7月に女子神学校を卒業、ニコライからロシア語の参考書を与えられ、瀬沼恪三郎(せぬまかくさぶろう)の協力でロシア語を習得、ラファエル・フォン・ケーベルに師事しピアノを習い、1897年(明治30)に瀬沼恪三郎と結婚しました。1901年(明治34)、尾崎紅葉に入門、紅葉と共同でトルストイの『アンナ・カレーニナ』、ツルゲーネフやチェーホフの短編などを翻訳発表しています。1909年(明治42)2月、報知新聞で夫とともに露探(ろたん)扱いされる根拠のない中傷記事が掲載され、当時としては珍しい女性の一人旅でロシア旅行をしました。1911年(明治44)にも敦賀―ウラジオストク経由でサンクトペテルブルグを旅行しています。1912年(明治45)に『青踏』に「叔父ワーニャ」を翻訳、1913年(大正2)に「桜の園」を翻訳発表、新潮社から出版されました。1915年(大正4)2月28日に40才で逝去、ニコライ堂で葬儀が行われ、雑司が谷霊園に埋葬されました。

 

          桜の名所、上野の近くに著名な文化人たちが眠る谷中の墓地があります。その一角に日本の文明開化期に活躍し、日本に最後の安住の地を見出した2人のロシア人が眠っています。ニコライ堂の礎を築いたニコライ(カサトキン)とその後継者であったセルギイ(チホミーロフ)です。ニコライ・カサトキンは、1836年(天保7)中部ロシアのスモレンスク県ベリョーザ村に生まれ、ロシア正教会の司祭として1861年(文久1)にロシア帝国箱館領事館付きで来日しています。その後、日本各地に教会を建立し、聖書の翻訳に係わるなど、日本における正教会の伝道に尽力しました。1904年(明治37)の日露戦争後、日本各地に残ったロシア人捕虜に対しては、彼らの帰国が終わるまで、これらの同胞人のために物心両面からの援助を惜しまなかったと伝えられています。1912年(明治45)に亡くなった時には天皇陛下から恩賜の花が届けられています。葬儀の日、谷中の墓地に3000人が集まりました。

         セルギイ・チホミーロフは、1908年にニコライの補佐として来日、ニコライが亡くなるまでの5年間を共に過ごし、ニコライの葬儀を執り行いました。ロシア革命と関東大震災と第二次世界大戦という困難な時代を生き抜かなければならなかったセルギイは、終戦の5日前の1945年(昭和20)8月10日に亡くなりました。

         元駐ソ大使の佐藤尚武(1881~1971)の墓碑は谷中と弘前の清安寺にあります。 1937年(昭和12)、林内閣で外務大臣に就任、入閣の条件として、平和協調外交、平等の立場を前提とした話し合いによる中国との紛争解決、対ソ平和の維持、対英米関係の改善の4つを提案のうえで受諾しました。1942年(昭和17)、東郷茂徳(とうごうしげのり)外務大臣に請われて駐ソビエト連邦特命全権大使に就任、1945年(昭和20)7月26日にポツダム宣言が出され、7月30日に佐藤は「ポツダム宣言を受諾する以外にない」と進言したが日本政府は無視しました。もし、佐藤大使の進言をいれてボツダム宣言を早期に受諾していれば、原爆投下もソ連参戦もさけられたでしょう。

         日本のロシア語界の先達の一人である八杉貞利は、1876年(明治9)に生まれ、1901年(明治34)にロシアに留学、1903年(明治36)に東京外国語学校教授となり、『岩波版露和辞典』(1935)、『岩波ロシヤ語辞典』(1960)を完成させました。

 

染井霊園=二葉亭四迷の墓(豊島区)

          近代の日本文学は西洋文学、とりわけロシア文学の影響を受けていました。二葉亭四迷(長谷川辰之助)は、1864年(元治元)に生まれました。ロシアの南下政策から国を守るために敵の国情を知ろうとロシア語を習得、その過程で知ったロシア文学に触発され、1887年(明治20)にまだ未熟だった明治文學に理論的支柱を与えることになった『小説総論』と初めての小説『浮雲』を相次いで発表しました。『あひびき』等のツルゲーネフの翻訳では、その詩想を伝えるために文体に四苦八苦、句読点の数を揃えることまで試みましたが、彼がロシア文学から多くを学んだお陰で、小説という形式が日本に根付いただけではなく、「言文一致体」という新しい文体が生み出されたのです。1908年(明治41)には「朝日」の特派員として露都ペテルブルグに赴いたが、帰国途次ベンガル湾上の船中で没しました。1909年(明治42)、遺体はシンガポールで荼毘に付され、染井墓地に葬られました。

          多磨墓地には大勢のロシア関係の著名人の墓があります。女優の岡田嘉子は、1938年(昭和13)1月3日、厳冬の猛吹雪の中、カラフト国境を杉本良吉とともに越え監獄に収容され、1947年(昭和22)、釈放されました。モスクワ放送に勤め、演劇学校に学びました。1972年(昭和47)35年ぶりに帰国、映画やテレビに出演したが、1986年(昭和61)にモスクワに戻り、1992年(平成4)に89歳でなくなりました。

          画家で早稲田大学のロシア語の教鞭をとったワルワラ・ブブノワと妹のヴァイオリニストの小野アンナの母アンナ・ニコラエヴナ、夫ウラジーミル・ゴロフシチコフ、小野アンナの夫小野俊一、早世した息子俊太郎(ドミートリー)が多磨墓地に眠っています。著名なヴァイオリニスト、小野アンナは武蔵野音楽大学教授などで後進の育成にあたり、諏訪根自子(すわねじこ)、巌本真理、前橋汀子(ていこ)、潮田益子(うしおだますこ)ら優秀なアーチストを世に送り出しています。小野アンナはスフミで1979年(昭和54)、ブブノワはレニングラードで1983年(昭和58)に亡くなりました。

         ロシア人を母としたリヒャルト・ゾルゲ(1895~1949)は1925年(大正14)にソ連の市民権をとりました。1933年(昭和8)来日し、重要機密をモスクワに通報しました。彼の墓は、石井花子の奔走により1956年(昭和31)11月に多磨霊園に建立されました。ゾルゲと出会いゾルゲ事件に巻き込まれていく尾崎秀美(ほつみ)の墓もあります。日本プロ野球投手スタルヒンの墓もあります。

         ロシア文学の先駆者・昇曙夢は、明治・大正・昭和前期において180冊余の著訳書を刊行してロシア文学者として不滅の実績を残しました。曙夢は文学者にとどまらず、奄美大島の日本復帰運動の本土側リーダーであり、たくさんの人々に慕われていました。

         小西増太郎は、1861年(文久1)岡山に生まれニコライ神学校に入学、1887年(明治20)に西徳二郎公使の随員としてロシアに渡航、キエフ神学校、モスクワ大学に留学、1893年(明治26)帰国、貴族院議員の野崎家の仕事に従事、1909年(明治42)トルストイと再会、1912年(明治45)京都大学で教鞭、教え子には近衛文麿がいます。1914年(大正3)ウラジストクを往来し、1927年(昭和2)久原房之助の通訳でスターリンと会見、1939年(昭和14)新宿駅頭で倒れ、死去しました。

 

ロシア文学の祖、馬場佐十郎の墓=宗延寺(杉並区) 

           馬場佐十郎は、中川五郎次がシベリアから持ち帰ったジェンナーの種痘書(1798年)『オスペンナヤ・クニ―ガ』のロシア語訳本(1803年)でしたが、それをゴロヴニンらの援助を得て、『遁花秘訣(とんかひけつ)』と題して翻訳(1813年)しました。これは露文翻訳の最初と思われます。馬場は、松前に行く前に、馬場為八郎(ためはちろう)、大黒屋光太夫にロシア語を学び、ゴロヴニンで拍車をかけ、江戸時代にあって五か国語を習得し、『魯語文法規範』を訳編し、ロモノーソフの詩も翻訳するなどロシア語学の祖、わが国のロシア文学の祖と評価されるほどです。1822年(文政5)36歳の若さで病没します。杉並区堀之内の宗延寺に墓碑があります。

          日本で最初のロシア史書である『魯西亜本記』二巻を著した前野良沢(1723~1803)は、『解体新書』で有名ですが、ロシア語を習得しており、江戸時代におけるロシア研究で果たした役割は桂川甫周(かつらがわほしゅう)、馬場佐十郎と並んで大きいものがあります。弟子に司馬江漢、大槻玄沢がいます。杉並区の慶安寺に墓碑があります。

          ロシアのプチャーチン使節との交渉にあたった川路聖謨は、1852年(嘉永5)幕府の勘定奉行兼海防掛となり、翌年ロシア船の長崎来航により露使応接掛を命ぜられてプチャーチン使節との交渉にあたったのです。1854年(嘉永7)、下田来航に際しても津波によるディアナ号の沈没にもかかわらず、大目付筒井政憲と共に折衝し、「日本魯西亜国通好条約」(下田条約)の調印に至りました。1863年(文久3)外国奉行に起用されましたが、老疾(ろうしつ)をもって辞任、後は官途に就かず、1866年(慶応2)江戸開城の際に割腹の後ピストルをもって自殺しました。台東区池之端の大正寺に墓があります。

ロシア語の天才、村上貞助の墓=玉林寺(台東区) 

          1811年(文化8)ゴロヴニン艦長のディアナ号が国後島に来航、全員が逮捕され松前に送られ牢に幽閉されました。村上貞助は幕府の命で松前に急行します。貞助はゴロヴニンらにロシア語の教授を乞い、各種の外交文書などの翻訳をおこないますが、ゴロヴニンは『日本幽囚記』に貞助のロシア語上達の速さに驚いたことを書いています。1813年(文化10)、ふたたび貞助は松前奉行所支配役下役に登用され、馬場佐十郎、足立左内らとともに松前に着任し、ロシア語に磨きをかけます。谷中の玉林寺には貞助の位牌と過去帳があります。父・村上島之丞の墓がありますが貞助の墓は見当たりません。

ロシア王朝時代の製パン技術の帝国ホテル(シャリアピン、イワン・サゴヤン) 

         1890年(明治23)に各国貴賓をはじめとする外国人の宿泊、接遇施設という国家的要請のもとに、東京・日比谷の一角に開業した帝国ホテルは、日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦など国際情勢に大きく左右されながら、外国人集客に努力してきました。1917年のロシア革命の結果、亡命や療養のため来日するロシア人が急増しました。声楽家フョードル・イワノヴィチ・シャリアピンは、1934年(昭和9)と1936年(昭和11)の2回宿泊しています。帝国ホテルの名物料理であるシャリアピン・ステーキは1937年(昭和12)からメニューに登場しました。外国人利用の多いホテルにとっての料理の要はパンですが、それを帝国ホテルで焼いていたのはイワン・サゴヤンでした。ロマノフ王朝時代の製パン技術を帝国ホテルにサゴヤンが伝えたのは1911年(明治44)ですからすでに100年以上帝国ホテルはロシアの味を日本国民に伝えてきたことになります。サゴヤンは1948年(昭和23)に帝国ホテルを退社し、芝パークホテルに移り、1953年(昭和28)に72歳で死去しました。サゴヤン夫妻の墓は横浜外人墓地にあります。

プロコフィエフ訪問の大田黒邸(大田区) 

          セルゲイ・プロコフィエフは、1918年(大正7)5月にモスクワからシベリア鉄道でウラジオストクに行き、5月31日に敦賀港に到着しました。音楽評論家大田黒元雄(おおたぐろもとお)と交友関係をもち東京と横浜でコンサートをおこない、日本の楽壇に大きな刺激と影響を与えました。1915年(大正4)7月23日午前と24日午後に、プロコフィエフは突然、大森の大田黒の自宅を訪ねて大田黒のピアノを弾きながら対話が続けられました。グリエール、グラズノフ、グリンカ、スクリャービン、ストラヴィンスキーが話題に上り、7月25日、30日には大田黒がプロコフィエフの宿舎に訪ねて、画家やバレエの話題で懇談しています。ロシアの作曲家の巨匠プロコフィエフが新進作曲家時代に日本に滞在していたことはあまり知られていません。

 

チャイコフスキー記念東京バレエ団(目黒区)

          1960年(昭和35)5月世田谷にチャイコフスキー記念東京バレエ学校が開校しました。ソ連から招聘された最初の教師はスラミフィ・メッセレルとアレクセイ・ワルラーモフで、ダンサーとしてボリショイ劇場で活躍し劇場や学校での指導でも高い評価を得ているソ連本国でも有名な二人でした。東京バレエ学校の伝統と作品を継承し、1964年(昭和39)5月にチャイコフスキー記念東京バレエ団が目黒区に創設されました。1周年記念にはボリショイ劇場との合同公演をおこない、1966年(昭和41)にはモスクワ、レニングラードで公演を成功させました。創立以来一貫して、古典の全幕作品から現代振付家の名作まで幅広いレパートリーを誇っています。これまでに32カ国155都市での海外公演をおこない、2015年(平成27)8月には斎藤由佳里が芸術監督に就任、東京文化会館、めぐろパーシモンホールを軸に地域に根差した活動に力を入れ市民に親しまれるバレエ作品の上演、普及に努力しています。

 

日本に本格的バレエをもたらしたオリガ・サファイア(大田区)

         日本中にバレエのすばらしさを伝えた世界的舞姫アンナ・パヴロワ、亡命先の日本で生きるために学校を開き、日本にバレエを根付かせた白系ロシア人バレリーナのエリアナ・パヴロワ、日本に初めて本格的なバレエ技術と理論をもたらしたソビエトからのバレリーナ、オリガ・サファイア。いずれも日本バレエの発展に欠くことのできない偉大な3人のロシア人バレリーナです。1936年(昭和11)、オリガ・サファイアはモスクワで恋に落ちた在モスクワ日本大使館の清水威久(しみずたけひさ)の妻として来日し、日劇ダンシング・チームのバレエ教師として迎えられました。そして、『バレエ読本』(1950)、『バレエを志す若い人たちへ』(1953)、『わたしのバレエ遍歴』(1982)の3冊の著作は日本に於けるバレエ理論の基礎を築きました。2人の墓は、埼玉県比企郡(ひきぐん)金剛院にあります。2人が暮らした大森の邸宅跡には「オリガ・サファイア、清水威久記念碑」が建立されています。

 

         レオ・シロタは1885年(明治18)に生まれ、9歳でキエフにあるロシア帝国ロシア音楽協会付属音楽学校に入学、グリゴーリィ・ホドロフスキーに師事、11歳で演奏旅行を経験しています。キエフ音楽学校卒業後、サンクトペテルブルグ音楽院に進学、グラズノーフに強烈な印象を与えました。シロタは新進ピアニストとして名声を博したのは25歳のときでした。1926年から27年にかけての演奏旅行は最後にハルビンでしたが、そこで山田耕作から日本の音楽学校で教育に携わることを勧められました。シロタは1929年(昭和4)ウイーンから日本へ渡り、赤坂区檜町3番地の茶色の洋館に住みました。シロタの家には山田耕作、近衛秀麿、梅原龍三郎、ワルワラ・ブブノワ、小野アンナらが頻繁に訪れました。1931年(昭和6)に上野の音楽学校の教職に就き、家では若い弟子たちにピアノのレッスンをしていました。日本の富裕層は子女のピアノ教育に熱心であり、シロタに入門する弟子は後を絶ちませんでした。シロタの下で教育を受けた弟子たちはたくさん活躍していました。太平洋戦争の中でユダヤ人のシロタ一家は軽井沢に強制疎開され、赤坂の家も空襲で焼けてしまい、1946年シロタは米国へ移住しました。1965年(昭和40)2月24日、シロタはニューヨークで79歳で逝去しています。追悼式には棟方志功が弔辞を読み、ニューヨークの墓地に葬られました。

 

レ二ア会サイバー記念館 地域医療に尽くした武谷ピニロビ(清瀬市)

          武谷ピニロピは、1919年(大正8)、ウラジオストクからハルビンに向かう列車の中で生まれました。日本で紳士服を開業する父を追って、母・姉とともに日本へ渡り、会津若松にて暮らし、会津女学校を卒業後、単身上京、女子医専(現東京女子医大)を卒業しました。理論物理学者・武谷三男と結婚、1950年(昭和25)清瀬村に診療所を開設しました。地域医療の中心として成長したピニロピ診療所は、1999年(平成11)医療法人社団レニア会武谷ピニロピ記念清瀬の森総合病院として発展しました。2015年(平成27)8月8日享年95歳で永眠しました。

 

日本ヴァイオリン界の礎を築いたアレクサンドル・モギレフスキーの墓(小平霊園)

          モギレフスキーは1885年(明治18)1月27日オデッサに生まれました。弁護士の父からヴァイオリンの手ほどきを受け、モスクワ音楽院ではソコロフスキー、ヤン・フジマリーに師事、1910年にはモスクワフィルハーモニー協会の音楽・演劇学校教授に就任しました。彼はトルストイ、パステルナーク、ラフマニノフ、スクリャーヴィン、メートネルらと交友していました。モスクワのスクリャーヴィン・サークルの一員で、彼の葬儀には棺を担ぎました。次弟レオニードはオデッサ音楽院教授、末弟ダヴィードはレニングラード音楽院教授であったが、モギレフスキーはパリのロシア音楽院で教鞭をとりながら、40才でロシアを逃れて1926年(昭和元)来日しました。11月26日から帝国劇場で5夜にわたるコンサートが開かれ、高い評価で反響をよびました。1927年(昭和2)には東京高等音楽学院(現・国立音楽大学)のヴァイオリン科教授に、1937年(昭和12)に東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)に迎えられ、レオ・シロタ、レオニード・クロイツアーとも共演していました。戦後、最後に教鞭をとったのは再び国立音楽大学で、1948年~50年の間後進の指導にあたりました。1953年(昭和28)3月7日、世田谷区三宿の自宅で死去しました。68歳。音楽葬は5月26日、クロイツアーや諏訪根自子らが出演しました。墓は小平霊園にあります。

 

サンボの創始者は“日本帰りのロシア人”ワシーリ―・オシェプコフ(東京・講道館)

          ロシアでサンボの創始者となったワシーリ―・オシェプコフは、ウラジオストクで「日本式格闘技の達人」であり、日本の講道館の名誉ある修了者でもありました。オシェプコフは1891年(明治25)サハリンのアレクサンドロフスクで生まれ、11歳で孤児となり、宣教師めざして函館神学校へ渡り、のち京都神学校に移ります。1911年(明治44)、ニコライ大主教の祝福と共に東京の講道館に入門、嘉納治五郎に師事し誰よりも早く初段の称号と黒帯を得て、教師たちの助手を務め、柔道の教導と理論の学習に励みました。1914年、第一次世界大戦の始まりと共に、ロシア国民であるオシェプコフは祖国に戻らなければなりませんでした。サンボの創始者となったオシェプコフは、ウラジオストク体育協会の教師となり、「日本帰りのロシア人」「日本の柔術の専門家」とよばれました。明治・大正の日本を舞台にニコライ・カサトキン、嘉納治五郎ら心の師との絆は、ロシアのサンボ選手、柔道選手に受け継がれていくことでしょう。

 

ディアナ号備砲と靖国神社・三笠公園 (東京都港区、横須賀市)

          1856年にロシア皇帝より江戸幕府に贈られたディアナ号備砲の52門の大砲の行方は箱館の弁天岬台場、品川台場など各地に痕跡を残しているが、東京都港区の靖国神社と神奈川県横須賀市三笠公園には説明板付きの展示があるのでご紹介します。靖国神社に送られた大砲2門のうち1門は遊就館より奥にある偕行文庫の前庭に展示されていますが、銘板には「銅製三十封度船用加農砲」と題し、「安政元年(1854)、伊豆下田港外に碇泊中の露国軍艦ディアナ号・・」と説明が書かれています。しかし、この大砲はディアナ号の備砲ではないというのが学術的通説です。「ハリス日本滞在記」や宇田川興斎記「下田はなし」の記録の中の砲の①サイズがあわないこと、②大砲の刻字が英国のガンメーカーのもの。③上面の王冠とVRの飾り文字はビクトリア女王のマークであること、等からこれは混入した英艦のラットラー号備砲ではないかという斎藤利生・防衛大学教授の説が支持されています。又、横須賀市の三笠公園の中にも「この大砲は安政元年(1854年)11月14日伊豆下田港において、大地震のために座礁破損した露国艦隊軍艦ディアナ号の備砲と推定されます。」と表示されていますが、上面のマークにNO,4JO(Jは1を表し、オランダ海軍の艦砲に必ず付けられるマークで砲の登録番号と思われる)と左砲耳面に(今は覆いがされていて見えないが)2485NED tt(ネザーランド・ポンド)とあることから、オランダ海軍の仕様による36ポンド中カノンとみられ、ディアナ号の備砲ではありません。ディアナ号や日露戦争の際のロシアの大砲が各地に所蔵されていることがありますが、大半は戦前の金属回収令で消失したものと思われます。

ロシア海軍装甲巡洋艦ナヒ―モフの主砲を展示・船の科学館(品川区)

          船の科学館は、東京都品川区の「ゆりかもめ」線の科学館前駅の目の前にあります。ロシア海軍の装甲巡洋艦アドミラル・ナヒーモフ(7780トン)に装備されていたウブコフ式35口径20・3センチ主砲の実物です。ナヒーモフは日露戦争の日本海海戦(1905年)において、日本海軍との交戦により沈没、主砲は1980年に対馬沖から引き揚げられたものです。全長7・1メ―トル、重量13・6トン、内径20・3センチ、砲身長35口径。

大正14年「日露交歓交響管弦楽演奏会」を歌舞伎座&松竹座で開催した山田耕作(あきる野市西多摩霊園)

          日本の代表的な作曲家、山田耕作は、1908年に東京音楽学校(のちの東京芸術大学)声楽科を卒業後、1910年から3年間、ドイツのベルリン王立芸術アカデミー作曲科に留学、1912年に日本人初の交響曲「かちどきと平和」を作曲しました。帰路はモスクワに滞在しシベリア鉄道で帰国したが、毎晩、スタニスラフスキー演出のモスクワ芸術座の公演に魅せられ、スクリャービンの音楽に烈しく撃たれました。「演劇の天国モスコウの上演は素晴らしく、ドイツ座のラインハルトのそれと比べると、遊芸と芸術の差ほど違うのだ。ドイツには真の芸術は心材しない。と言う私の主張は、モスコウに来てその正しさを更に裏付けられた。しかし、その完璧な劇芸術の栄光にも増して私を縛りあげた、スクリャービン芸術の実在を発見した私は、全く途方に暮れざるを得ないのであった。」(自伝『はるかなり青春の調べ』)

                    1924年には近衛秀麿とハルビンのオーケストラ楽員と日本人楽員で構成したオーケストラの演奏会「日露交歓交響管弦楽演奏会」を主宰、歌舞伎座や大阪松竹座、京都松竹座、などで開催し大成功をおさめました。これを母体に現在のNHK交響楽団の前身の日本交響楽協会を設立しました。又、他方で1931年ソヴェートの友の会創立に参画、ソビエト文化事情の講演もおこないました。この年、8月に訪ソし9月16日に帰国したが、これが日ソ音楽交流の最初の出来事となりました。又、1933年に夫人同伴で招聘され2月18日敦賀発、5月10日東京に帰着しています。「ロシア人形の歌」(全5曲、作詞北原白秋)、「ペチカ」(作詞北原白秋)、「スクリャービンに捧ぐる曲」(=「夜の詩曲」「忘れ難きモスコーの夜」の全2曲から成る。モスクワ滞在時に聞いたスクリャービンのピアノ曲に感銘を受けて作曲。)など作品数は膨大です。世田谷区成城にて79歳で没、墓は東京都あきる野市の西多摩霊園。

 

ロシア語の先駆者、加藤肩吾  ラクスマン、トウゴルコフに学ぶ(世田谷区幸龍寺) 

                 ロシアのペテルブルグで日本語教育がおこなわれたのは316年前の1705年といわれていますが、日本の旧東京外国語学校が開設されたのはそれから168年後の1873年(明治6)のことでした。しかし、12年間ロシアに滞在しロシア語を身に付けた漂流民の大黒屋光太夫が帰国した1792年(寛政4)、馬場佐十郎・村上貞助・足立左内・上原熊次郎らがゴロヴニンらにロシア語を学ぶ文化10年(1813)が日本におけるロシア語学習・教育の大きな出来事と捉えられています。しかし、アダム・ラクスマンが1792年(寛政4)、根室に大黒屋光太夫を帰還させる目的で来日した際に、寛政4年12月24日、松前藩から近藤吉左エ門・米田右エ門・鈴木熊蔵・医師加藤肩吾が派遣され根室で応接しましたが、加藤肩吾はトウゴルコフ、ラクスマンにロシア語を学びました。そしてロシア事情の『魯西亜実記』を著します。寛政8年、イギリスのブロートンが蝦夷地・室蘭に来航した際にも加藤肩吾らが派遣され応接したがロシア人船員との対話が出来たことが伝えられています。従って、加藤肩吾がロシア語を修得したのは寛政年間であり、馬場佐十郎が江戸に送還された大黒屋光太夫にロシア語を学んだのが文化5年、ゴロウヴニンに松前で学んだのが文化10年ですから、歴史的インパクトは馬場佐十郎らにありますが、先駆的な成果としては加藤肩吾(松前藩医師・津和野藩医師、文政5年4月4日死去)が日本最初のロシア語修得者として評価されます。浅草の幸龍寺に弔われましたが、関東大震災後の寺の移転で墓は消失されました。戒名は「禅定院宗入日深居士」。幸龍寺は現在、世田谷区北烏山5丁目にあります。

 

ロシア・ソビエト音楽界との交流、音楽市民運動に尽力した日本の代表的作曲家芥川也寸志(豊島区慈眼寺に墓)

                  芥川龍之介の3男として誕生した也寸志は、1927年2歳の時に父が自殺、長兄(俳優の芥川比呂志)らと遺品のストラヴィンスキーのSPレコード「火の鳥」「ペトル―シカ」を毎日のように聴きながら遊んでいました。1947年東京音楽学校を卒業、1950年25歳のときに『交響管弦楽のための音楽』を発表、1953年ショスタコーヴィチを訪問、1954年ショスタコーヴィチ、ハチャトゥリアン、カバレフスキーらと交友し自作の演奏、出版をソ連で実現しました。1961年新響第5回定期演奏会でチャイコフスキーの第5交響曲を皮切りに、グリンカ、ボロディン、ラフマニノフ、カバレフスキーを次々取り上げ、1969年にショスタコーヴィチ第5交響曲を演奏、1986年にはショスタコーヴィチの交響曲第4番を日本初演で指揮しました。
   TVドラマ「赤穂浪士」、映画「八甲田山」「八つ墓村」など多彩に作品を創り最優秀音楽賞などを受賞しています。芥川は本格的な音楽活動とともに、「反核・日本の音楽家たち」運動、市民合唱団を指揮した「うたごえ運動」、ソ連青年団体委員会の招聘によるソ連各地の指揮活動、自作のチェロ協奏曲やオペラ「ヒロシマのオルフェ」を指揮するなど日ソ音楽交流に力を入れてきました。
 1988年にゲルギエフ指揮するオーケストラらと交流するソ連での音楽祭への出発直前、肺がんが見つかり入院、1989年死去しました。享年63歳。豊島区の慈眼寺に墓があり、芥川龍之介、比呂志、谷崎潤一郎、司馬江漢らの墓もあります。