――北陸・東海・中部地域には、大正時代にトルストイの「復活」の舞台で“カチューシャの唄”を歌った松井須磨子や、幕末の日露交渉の舞台である伊豆半島があります。

 

「さすらいの唄」

「ゴンドラの唄」

 

作曲=中山晋平 

ソロ・ピアノ編曲、ピアノ=川西宏明

静岡=下田(日露和親条約締結の舞台) 

         日本とロシアは、1854年(安政1)に日米和親条約が締結された9カ月後に、下田で日露和親条約(下田条約)が締結されました。条約は下田の長楽寺の本堂で調印されました。宝物館には同条約の日本語正文(複写)が陳列してあります。締結に至る条約交渉の会場であった玉泉寺山門下にはディアナ号乗組員の墓3基とアスコリド号水兵の墓1基があります。豆州下田郷土資料館にはプチャーチン提督のカバン、モジャイスキーの銀板写真のレンズなどディアナ号の遺品を多数展示しています。ベイ・ステージ下田(外ヶ岡交流館)にはモジャイスキー撮影の写真、プチャーチンが持っていたイギリス製の世界地図などを展示しています。

 

          日露和親条約締結交渉中に発生した安政の大地震と大津波でロシア側のディアナ号が大破し、修理のため曳航中、富士市宮島沖で沈没しました。日本は西伊豆の戸田港の牛ヶ洞でロシア人と共にその代艦ヘダ号を建造しました。幕府はその後戸田でヘダ号と同型船を6隻建造し君沢型と呼ばれました。日本はヘダ号建造で西洋式の造船技術を習得し、戸田は洋式船発祥の地となりました。

         1969年(昭和44)開設の戸田村立造船郷土資料博物館(現戸田造船郷土資料博物館・駿河湾深海生物館)には、玄関前にディアナ号の錨が置かれ、ディアナとヘダ号の実物模型と設計図、造船の道具、プチャーチンの日用品などが展示されています。牛ヶ洞には洋式帆船建造地碑があります。プチャーチンらが宿泊した宝泉寺にはロシア人水兵の墓が2基あり、大行寺には川路聖謨とプチャーチンの日露交渉応接所の記念碑と、ヘダ号建造造船大工の上田寅吉の墓があります。

 

 

プチャーチン提督と日本の漁夫の像(富士市) 

          1854年(嘉永7)11月4日、東海地方に大地震が発生しました。日露和親条約調印のために、来日していたロシア使節、プチャーチン提督のディアナ号は大地震に伴う津波によって大きな損傷を受け、修復のため下田から戸田へ向かう途中、富士郡宮島村(富士市)海岸に漂着しました。11月27日、宮島村住民は、プチャーチン提督以下の乗組員463名全員を救助しました。村のほとんどが地震のため家が倒壊しているにもかかわらず、村民は仮小屋を急造して寒さを凌がせ、乗組員を援助しました。宮島海岸から引き揚げられたディアナ号の錨は三四軒屋(さんしけんや)緑道公園に置かれています。ロシアの有識者から「友好の像プチャーチン提督と日本の漁夫」の銅像が寄贈され広見公園に設置されています。

長野=松井須磨子の生家&演劇碑(「カチューシャの唄」の大ヒット)

           明治末から大正という日本近代演劇の黎明期にトルストイの「復活」と「カチューシャの唄」をヒットさせ一世を風靡した松井須磨子(小林正子=1886~1919)の新しい演劇碑と墓は、1994年(平成6)11月、長野市松代町清野の生家そばに建てられました。須磨子の著書『牡丹刷毛(ぼたんはけ)』に出て来る「石垣の上の窓の二ッ有る土蔵が一番目につく、これが私の家!私はあそこで生まれたのだから」と書いている土蔵と門と庭園は火災にあったが今も残っています。従来紹介されている演劇碑は1953年(昭和28)に生家から徒歩20分ほどの林正寺に建立されたもの。すなわち、「カチューシャの唄」演劇碑は2つあります。又、東京の新宿区の多聞院にも墓があります。1911年(明治44)には『青踏(せいとう)』が創刊され、女性解放運動が高揚していく時代の流れの中で、「新しい女性像」が注目され、女優という職業を確立した須磨子の社会的影響は大きいものがありました。1915年(大正4)にはウラジオストク公演を実現し、1919年(大正8)1月5日、島村抱月の命日に須磨子は自殺、32歳の舞台人生を終えました。

 

           対露貿易の先駆者、銭屋五兵衛記念館は金沢市金石本町にあります。壮大な銭屋五兵衛像がそびえたち、本龍寺には墓碑があります。五兵衛は、金沢市(加州宮腰)の廻船問屋で、江戸・大阪・兵庫・長崎・新潟・酒田・青森・弘前・松前・函館など全国34カ所に支店を持ち、所有した船は大小あわせて230艘、資産は300万両(約500億円)といわれていましたが、河北潟埋立投毒事件で検挙され、一瞬のうちに私財をすべて没収され没落した江戸後期の商業資本家です。五兵衛は、本多利明、大野弁吉らの影響を受け、外国との自由貿易を志向していました。当時は商品の生産と流通が封建的生産関係=鎖国体制のワクをこえる形で発展しつつあり、商業資本の台頭により密貿易が盛んでその筆頭は薩摩藩でした。五兵衛も加賀藩の暗黙の了解のもと、対露貿易、カラフトでの山丹交易(さんたんこうえき)、朝鮮貿易を展開しました。江戸時代は鎖国令により長崎・出島以外は一切の経済交流が閉鎖されていたと誤解されているむきがありますが、松前・対馬・長崎・薩摩の四つの門戸が開かれており、どこも密貿易がひんぱんにおこなわれていました。独特の歴史観で分析する松本清張は、「銭屋五兵衛が大胆不敵に大規模な密貿易をやっていたことは確かだ。・・松前貿易だけで、こんなに利益をあげうるわけがない。」(『幕末の動乱』)とのべています。歴史家の北島正元は「加賀藩が銭五を存分に利用しておきながら・・密貿易にたいして幕府の嫌疑がかかりそうになったので、すべての責任を銭五に負わせて、藩の危機を回避しようとした」とみています。

 

ロシア漂流民重吉供養塔(名古屋市)

          「漂流督乗丸(とくじょうまる)碑」が名古屋市熱田区(あつたく)の成福寺(せいふくてら)境内にあります。尾張名古屋納屋町・小島屋庄右衛門の持船督乗丸は、1813年(文化10)10月尾張藩の廻米などを積んで知多半島の師崎を出帆したが、江戸で仕事を終え郷里に向かう遠州灘にさしかかった時に激しい嵐に遭遇、見知らぬ海を漂い、14名の乗員は3人になり、太平洋上を1年5カ月も漂流しました。督乗丸はカリフォルニア沖で「イギリス」船に救助され、アメリカ大陸のサンタ・バーバラやルキンに寄港しながらロシア領アラスカのシトカ島に着く。重吉、音吉、半兵衛の3名は記録上、アメリカ大陸に上陸した初めての日本人でした。次にカムチャツカのペトロパヴロフスクに入港、1816年5月、漂民を送還するロシア船でエトロフ島に上陸、8月に根室から松前に護送され、11月に江戸を経て、翌年4年ぶりに郷里半田村で家族に対面できました。重吉は亡くなった仲間を供養する石碑を建てるために奔走、笠寺に督乗丸の船形と帆を模した石碑を建てることができました。重吉は『ヲロシヤの言』という木版刷りの和露語彙対訳集をつくりました。また、池田寛親(ひろちか)の聞き取りによる口述記録『船長(ふなおさ)日記』が残されています。重吉は1853年(嘉永6)に69歳で死去しました。

          佐久島は三河湾に浮かぶ小島。三河湾国定公園に含まれ、島には22の現代アート作品が点在して、人口は262人。1813年(文化10)江戸から尾張への帰還途中で暴風雨に合い重吉らを乗せた督乗丸は、世界で最も長い期間漂流した人達として知られています。重吉の出身地である佐久島には一色(いっしき)町教育委員会による「史跡海の男船頭重吉出生之地」碑が建っています。

ユーラシア大陸単騎横断に成功した福島安正記念碑(松本市)

           福島安正少佐(1852~1919)の大陸横断の壮挙は、日清戦争の直前で、1892年(明治25)2月11日ベルリン発、翌93年(明治26)6月12日ウラジオストク着で、実に488日、総距離約1万4千キロ、使用した馬数十頭で、最後の3頭は日本に連れてきました。出発時福島は39才、踏査中に少佐から中佐に昇級し、経費は約6千円かかったと伝えられます。福島安正将軍の生誕地の松本市開智の住宅地の公園に「福島大将誕生地」と記した記念石碑が建立されています。福島は、ロシア、清国の実情、とくに軍事力の調査目的でただ一人馬を駆って、途中重症を負いながらも横断をやりとげました。その後の対露軍事・諜報戦略に大きく貢献し、日清・日露戦争における謀略活動を指揮しました。福島の勇気ある行動は海外膨張をめざす明治政府にとり好ましいものでした。

軽井沢とロシアー外国人墓地(軽井沢町) 

           外国人の避暑地とはいえ、あまりロシアと結びつかない軽井沢ですが、意外に秘められた歴史がありました。軽井沢外人墓地には、ロシア人レーノチカ・ヴェリコヴァの石碑、クセーニャ・ウリャノヴァの木の墓、ドミトリー&エカテリーナ・シュミリンとエフィム・イグナトフの木の墓の3基が存在します。元々、軽井沢には大正時代からロシア人居住者および避暑客がおり、年表にも「亡命ロシア人たち山荘で暮らす」とあります。彼らは洋服やロシア・パン、ピロシキを販売していました。ロシアに遊学した山本鼎は当地にアトリエを構え芸術自由教育講習会を開きました。太平洋戦争末期に万平ホテルに在日ソ連大使館が疎開していました。戦時中は「敵性国人」として版画家のブブノワ、ヴァイオリニストの小野アンナ、ピアニストのレオ・シロタ、野球のスタルヒンらの一家が当地に強制疎開されました。小野アンナらは当地の公民館でコンサートを開きました。リュボーフィ・シュウエツは1974年に「ウラル」というロシアレストランを7年間開き、大変人気があったことが伝えられています。

           ロシア革命直前のモスクワに半年間滞在した画家、山本鼎記念館は上田市に開設されています。山本鼎(1882~1946)の代表的な作品をはじめ、モスクワ時代の油彩と版画、ヨ―ロッパ各地とロシアから持ち帰った工芸品、伝記資料が展示されています。又、信州の農民美術運動草創期の作品も展示されています。山本は岡崎に生まれたが、帰国後は上田に居住、農民美術運動を起こします。1922年(大正11)には上田市に日本農民美術研究所を設立、この運動は全国へと広まりました。

          トルストイ、チェーホフ、プーシキンなどロシア文学の翻訳に生涯をささげた中村白葉(1890~1974)の文学碑は、長野県大町市の大町図書館前庭にあります。とくに『アンナ・カレーニナ』は何度も改訳をおこなうほど情熱を傾けました。1912年(明治45)に東京外国語学校ロシア語科卒業後は、鉄道院、雑誌編集者、朝日新聞社、貿易会社、日本電報通信社などに勤務するかたわら、ロシア文学の翻訳に力を入れ、信濃(しなの)木崎(きざき)夏期大学でロシア文学の講師を務めました。大町市立図書館に中村白葉文庫があります。

          1831年(天保3)、越後国早川村船主長門屋次郎左衛門の所有船五社丸(400石積)に船頭惣吉外7名が乗り込み、江差港から8月12日、兵庫へ向けて出港しました。翌13日から出羽沖で大時化が続き、食料、薪、水も不足し12月下旬には船中飢餓の状態で次々と4名が死亡、辛うじて4名だけが残りました。ハワイ諸島に辿り着き、1年後ロシア領シトカ行きの帆船に便乗し、オホーツクへ移送され、天保3年にエトロフ島、クナシリ島に上陸することができました。松前から江戸へ護送され、天保9年3月11日帰村できたのは3名でした。3名のうち、唯一、久太郎の家族に変化がなく、遺品は本家で保存している当時のロシアのビイドロ球(直径10センチ)1個があります。石動(いするぎ)神社には五社丸の絵馬(えま)が奉納されています。

 

佐渡のロシア人墓地(佐渡市) 

           朱鷺(とき)のいる島、徳川300年を支えた金山、たらい舟などで知られる観光名所の佐渡島には日露戦争のロシア人水兵の墓が3カ所に存在しています。両津の安照寺住職・梶井輝雄さんによると、「当時の佐渡新聞によると島内への漂着記事は11件あり、両津市内では真更川、梅津、住吉、両尾の4カ所であった。」と述べています。梅津の真法院の当時の住職・伊藤法純は自費を投じ遺骨を手厚く埋葬しました。同寺の過去帳には、「盛林道光居士 漂流露国兵 明治三十八年六月二十日」と明記されています。金井町には日清・日露戦争の戦没者を慰霊する明治紀念堂があります。その敷地内に「嗚呼露国人墓」と書かれた標柱と「ロシア水兵の墓」と記した墓碑が建っています。得勝寺の当時の住職・本荘了寛によって埋葬されたものです。2002年6月、在新潟ロシア総領事館によって、本荘了寛顕彰碑の横に新しい墓碑が建てられました。

 

          在リトアニア日本領事館に殺到したユダヤ難民を前に、ビザ発給を決断した杉原千畝は、戦後日本外務省を追われましたが、6000人の命を救ったとして生誕地の八百津町は世界平和のモニュメントを建設しました。人道の丘公園は、八百津町より東約3キロ、丸山ダムを登った高台に4ヘクタールの広さを持つ公園です。2139枚の命のビザをかたどったモニュメントがあり、総ヒノキづくりの記念館には杉原の執務室を再現、木組みの展示室には「命のビザ」写し、それらで救われた人々の足跡、イスラエル政府の勲章其の他の表彰の数々。セラミックパイプオルガンのモニュメントが世界に平和のメロディを発信しています。

          新城市(しんしろし)の新城文化会館の敷地の一角に『船長日記』の石碑が建っています。『船長日記』の著者、池田寛親は三河新城藩江戸家老。尾張半田の船頭小栗重吉から太平洋・ロシア漂流談を聞き、文政5年に「船長日記」を著しました。石碑には「国学にも長じていた寛親の文章は、平明簡素・文藻豊かで薫り高く、本邦随一の漂流記とされている」と書かれています。石碑建立の経緯は「郷土の文人研究に生涯をささげた鈴木太吉は、昭和63年新城藩主の菩提寺である宗堅寺にて発見された日記を池田寛親のものと認定し平成13年春、88歳の時にこの解説・注釈本を刊行した。」とされています。

          豊橋ハリストス正教会は、国の重要文化財に指定されている聖使徒福音記者マトフェイ聖堂を有しています。修善寺ハリストス正教会はニコライ大主教の病気快復を願って建てられたと言われています。18メートルの鐘楼を揚げる聖堂内のイコノスタス(聖障)は旅順にあった聖堂から移設されたもので、色彩、デザインともにあまり類のないものとされます。

          1871年(明治4)に、日本人で初めてシベリア大陸を横断した嵯峨寿安は、1840年加賀藩(現富山市岩瀬)に生まれ、1866年(慶応2)箱館でニコライ司祭と知り合い、ロシア語と日本語の交換教授を行いました。加賀藩からロシア留学の許可が出たので1867年(明治4)5月、函館からロシア軍艦エルマーク号に乗り、ウラジオストクに行き、シベリア大陸を馬車、橇等に乗って8カ月をかけてペテルブルグに到着しました。1874年4月に帰国しましたが、自分を送り出した加賀藩は廃藩置県ですでになくなり、日本は大きく変貌し、北海道開拓使御用掛、東京外国語学校で教鞭をとりましたが、最終的には広島師団の参謀本部でロシア語の通訳を務め、1898年この地で没しました。享年58歳でした。嵯峨寿安の称徳碑とレリーフは富山市立岩瀬小学校の校庭にあります。

          2001年、イルクーツクでの日露首脳会談の際に、プーチン・ロシア大統領が森喜朗首相の父・森茂喜のシェレホフの墓に墓参したことで知られる森茂喜は、石川県根上町長選9期連続無投票当選(自治体首長としての最多記録)するほど人徳者で知られました。根上町はシェレホフ市と姉妹都市提携を結び、ロシアとの中学生の相互訪問や市民交流が盛んでした。根上町の生家に「イルクーツク・シェレホフ森茂喜友好の館」、シェレホフ市に「森茂喜記念碑」「モリシゲキ会館」が設置されています。

 

          石川県羽咋市にある宇宙博物館「コスモアイル羽咋」は、1996年開館しました。ここには、旧ソ連のヴォストークの本物があります。赤茶けた球状の胴体に、宇宙からの帰還時に時速2万KM以上もの速度で大気圏に突入・落下し摩擦熱で燃え上がった痕跡を白く残した、ガガーリンのヴォストーク宇宙船には心が躍ります。また、展示される無人月探査機ルナ24号は、月の石を持ち帰ったルナ計画で使用された機材の予備機です。

          金沢市の野田山には日露戦争のロシア人墓地があります。日本海海戦で捕虜となった兵士6000人が金沢の高岸寺など収容所に収容されましたが、病気などで母国に帰ることができなかった兵士の慰霊と清掃を、石川県ロシア協会らが行っています。又、能登半島の穴水町には、2名のロシア水兵の遺体が漂着し地元民が収容、お墓を造り慰霊と清掃をおこなってきました。

 

名古屋のロシア人墓地

          日露戦争のロシア兵捕虜の墓地が名古屋市の平和公園にあります。捕虜は、明治38年6月には東別院、西別院、長栄寺、天寧寺、万松寺、徳源寺、五百羅漢寺、千種廟舎に約4000名が収容されました。空襲や墓地移転で所在が不明でしたが、1990年に再確認され、15基の墓が再建されました。ハリストス正教会らによって追悼式が行われてきました。

 

ステッセルのピアノ(金沢)

          金沢学院大学所蔵の「ステッセルのピアノ」は、日露戦争・旅順攻防戦で降伏したロシアのステッセル将軍から乃木希典将軍に贈られたというピアノです。戦後、金沢学院大学の前身、金沢女子専門学園が譲り受け、平成5年に北國新聞創刊100年記念事業で、蒔絵を施した芸術品となり、同大学の文化財として2号館展示室に保管・展示されています。

 

370年前に沿海州に漂着した三国の一行(だったん漂流記)

          竹内藤右衛門ら58人は、1644年(寛永21)4月1日、3艘の船に分乗して三国港を出発、交易のため、蝦夷地に向かいました。だが天候不順で強風に襲われ、沿海州のポシェット湾に漂着しました。当時は清国領でトゥングース系の女真族が住んでいました。朝鮮人参を手にした地元民と話すために上陸したが、武装しており43名が殺され、国田兵右衛門ら15名は逃れたものの北京に護送され、京城―対馬経由で1646年6月16日、大阪に帰還することができました。彼らは、幕府の取り調べを受け、その供述は『だったん漂流記』にまとめられています。しかし、「漂流」には疑問があり、朝鮮人参の抜け荷をねらった偽装漂流とする見解もあります。実は、ロシアへ漂着した伝兵衛より半世紀も早く沿海州に「漂着」していたことは注目されます。三国町の性海寺(しょうかいじ)に竹内藤右衛門らの墓とだったん漂流者供養碑があります。

 

          1838年(天保9)4月、越中西岩瀬から出帆した長者丸(乗組員10人)は、蝦夷を廻り、11月仙台を出帆、暴風に合い太平洋を数カ月漂流し、捕鯨船に助けられ、ハワイに行き7カ月滞在しました。1840年(天保11)8月ホノルルからカムチャツカ、オホーツク、アラスカのシトカを廻り、1843年(天保14)5月にエトロフ島に送還されました。その後、江戸に6年抑留され、越中へ帰ったのは1848年(嘉永1)10月でした。10人の内、帰郷できたのは4人(太三郎、六兵衛、次郎吉、金蔵)で、加賀藩は『時規物語』(全10巻25冊本)を編纂、古賀謹一郎は次郎吉から聞き取りし『蕃談』(3巻)を著しました。

 

日本で最初に日露同盟論を主張した識者・藩医の橋本左内(福井市)

         橋本左内は幕末の思想家、越前国福井藩の藩医。徳川14代将軍をめぐる継嗣問題では、松平春獄を扶け一橋慶喜擁立運動を展開し、幕政の改革を訴え、西欧の先進技術の導入、対外貿易を行うことを構想しました。左内はまずアメリカとの通商条約によって友好関係を結び、大国ロシアとの間に攻守同盟を実現し、イギリスと戦端を開くことも辞せぬ態度で、国際社会に対応するのが得策だと判断しました。「ロシアには信があり隣境であり、しかもわが国とは「唇歯の国」である」と1857年(安政4)盟友村田氏寿宛書簡(『橋本景岳全集』上巻)に日露同盟論といえる外交政策を記述しています。墓は福井市の善慶寺隣接の左内公園と東京の荒川区にあり、左内公園には銅像などがあります。

 

         富山県の新湊市と高岡市の境界地で、庄川と小矢部川にはさまれた細長いデルタ地帯の先端部に庄西町(しょうせいまち)と言う名の地域があります。この地域は江戸時代には加賀藩の河北七浦の1つとして栄えた六渡寺湊として知られていました。幕末には渡海船300隻を有する繁栄の時代を築いています。1865年(慶応元)6月、越中国(富山県)六渡寺村の平次郎所有の平寿丸は蝦夷地に向かう途中に佐渡沖にて漂流し、ロシア沿海州に6月12日に漂着しました。100石の小廻船でしたが、薬荷と畳を積み、沖乗船頭清八(32歳)、水先案内人興吉(51歳)、水主小次郎(15歳)、同興次郎(14歳)、同次三郎(23歳)の5人が乗り組んでいました。三か月余滞在し、9月18日にウラジオストクと思われる港から長崎にむけて蒸気船で出発、9月27日に対馬港に着き、さらに10月5日に出航し長崎に帰還することができました。この漂流の特徴は、従来の千島・カムチャツカ・太平洋上の漂流・漂着と違い、沿海州の漂着でした。又、1854年(嘉永7)の日露和親条約締結以後の漂流民でロシア側に救助されて帰国した数少ない例となりました。