日本のなかのロシアの生活(衣食住)

          (倉田有佳)

         昨今の日本はパンブームだが、ロシアパンやピロシキの味は、長崎・下田・函館といった開港地では、江戸末期に日本人が既に体験していた。「ピロシキ(Пирожки)」とは、小麦粉を練った生地で具を中に包み込んで焼いたり揚げたりするロシアの菓子パンの一種で、具にキャベツ、肉、じゃがいもといった惣菜系のものから、リンゴなどの甘いデザート系のものまでと幅広い。日本で最初に本場ロシアのピロシキを食したのは長崎の役人で、1853年に日本との通商・和親条約締結のため同地を訪れたロシアの使節プチャーチン提督の乗った軍艦「パルラーダ号」の艦内でのことと考えられる。

          20世紀に入ると、日露戦争中に満洲で捕虜となった日本兵、あるいは捕虜として日本の収容所に送られたロシア兵からロシア流の製パン技術が日本に伝えられた。

          そして、日露戦争終結から数年後、明治末年の東京で「ロシヤパンブーム」が巻き起こる。パンの製造を手がけたのは、日露戦争後、日本領となった樺太に残留したロシア人で、樺太から日本に連れて来られた。ロシア人が焼くパンは直焼きの丸パン(ブールカ、ブーロチカ)で、特に日本人好みの甘くて軟らかいパンが人気を博した。窯造りからロシア人が手がけたパンは、「焼き方が申し分ない」、と「露西亜パン通」を唸らせた。ロシア人や日本人が箱車を曳いて行商するパンは、1個が平均200グラム強、5銭で売られた。最も売れた時には1日に1500個を売り尽くす者もいた。

          ところが、人気に便乗し、「ロシヤパン売り」が爆発的に増えたためであろうか、東京でのブームはわずか1年足らずと短命だった。

          明治末年の日本のパン業界での主力は菓子パンで、食パン屋は卸屋だった。しかし、帝国ホテルに雇われたイワン・サゴヤン(アルメニア系の白系ロシア人)が伝える「ロマノフ王朝の宮廷のパンの味」、新宿中村屋のキルピデス(ギリシア系の白系ロシア人)が作る「バトン」【写真1】の登場で、日本人は本格的なパンの味に親しんでいく。だが、一般の人々が気軽に「食パン」を口にするようになるのは、まだ先のことである。

         (※)白系ロシア人:1917年のロシア革命の混乱の中で本国を離れたロシア人。亡命ロシア人。

 

         東京での「ロシヤパン」ブームが去って数年後、函館(北海道)に旧教徒(古儀式派)が現れた。一時は60-70人が函館郊外に暮らし、守るべき厳格な信仰生活を送りながら、畑を耕し自給自足的生活を営んでいた。自家製の野菜やパンを販売し、生活の糧を得ていた。「黒パン」と聞けば、シベリア抑留体験と共に語られる酸味の強い、腹持ちの良い四角いパンを連想する方も多いだろうが、函館で「ロシアパン」といえば、直焼きの「黒パン」を指した。

         幕末以来、様々な外国人と日本人が共生してきた神戸では、白系ロシア人から、自家製の「ピロシキ」をおすそ分けされたという。日常の一コマである。

         戦前の日本領樺太では、駅のプラットホームでロシア人やポーランド人が売る丸パンは、内地からの旅行者には樺太名物で、島民にとっては生活に溶け込んだ食べ物だった

            「ロシアパン」を製造販売する大手パンメーカーがあるが、ロシアの「食」として日本に定着したのは何と言ってもピロシキだろう。ピロシキ専門店や全国のパン屋さんで売られているため、現在は手軽な食べ物となっているが、ロシア料理店のメニューを飾る一品でもある。新宿中村屋が白系ロシア人のスタンレー・オホツキーを高給で雇い【写真2】、ピロシキをメニューに登場させたのは1933年のことである。

                   その調理法は、オーブンで焼く、揚げる、小麦を付けて揚げるなど店によって異なるが、それ以上に多様なのは、パン生地に包む具材である。一種の総菜パンと解釈され、アレンジされていった。例えば、春雨入りのピロシキは【写真3】、日本のピロシキの定番となっているが、戦前、ロシア人が多数暮らしていたハルビンの味を参考に、戦後の東京で開いたロシア料理店「ロゴスキー」が元祖とされる。同店創業者の妻で、店の調理を担当していた長屋美代さんは、ロシア料理が家庭料理として取り入れてもらえるようにとの思いから、1964年に『標準ロシア料理』を出版した。「ピラシキイ(ねり粉のロシアまんじゅう)」も作り方が詳しく紹介されている。戦前の満洲で覚えたピロシキの味は、戦後日本の一般家庭の子どものおやつとしても広まった

【写真1】(新宿中村屋HP)
【写真1】(新宿中村屋HP)
【写真2】(新宿中村屋HP)
【写真2】(新宿中村屋HP)
【写真3】春雨・玉子・ひき肉等を具材としたピロシキ(筆者撮影)
【写真3】春雨・玉子・ひき肉等を具材としたピロシキ(筆者撮影)

              関西に多数の店舗を展開した「パルナス製菓」のように、日ソ共同宣言(1956年)直後にソ連を訪れ、帰国後「パルピロ」(ピロシキ)やロシア風各種ケーキを売り出したところもある。2002年に廃業したが、ピロシキの味は、同店から独立した「モンパルナス」が紆余曲折を経ながらも引継いでいる。

          さらに近年では、地産の肉魚野菜類を使用し、地域の特性を活かした「ご当地ピロシキ」が全国各地で生まれている。

         洋菓子では、白系ロシア人のフョードル・モロゾフ(2006年に「コスモポリタン製菓」は廃業)やマカロフ・ゴンチャロフが神戸から発信した高級チョコレート菓子や「ロシアケーキ」が挙げられる。ロシアケーキは、ジャムやアーモンドを真ん中に置いたバタークッキー状のものが定番だが【写真4】、現在は、チョコレートやマカロンを使ったもの、四角やハート型のものなど、全国各地で独自の発展を遂げている。

【写真4】真ん中にアーモンドを置いたロシアケーキ(筆者撮影)
【写真4】真ん中にアーモンドを置いたロシアケーキ(筆者撮影)

          ジャム入りの「ロシアンティー」、トマトを使った「ボルシチ」(ウクライナやロシアの伝統的スープ)は、ロシアの「食」としてすっかり浸透している。最近では本場の味にこだわり、トマトではなくビーツを使ったボルシチを提供する店も増えている。

         羊羹をカステラで挟んだ「シベリア」のように、日本人の菓子職人がシベリアの凍土(ツンドラ)をイメージして作ったとも言われる和洋折衷菓子がある。ロシア由来の「食」とは言えないかもしれないが、2013年に大ヒットしたアニメ映画の影響で、大正・昭和から一気に平成時代の若い世代に注目されることとなった。

          「衣」に目を転ずれば、大正から昭和にかけて、「ルバーシカ(Рубашка)」(ロシア・ウクライナの伝統的なシャツ)が浸透した。当時は「ルパシカ」と呼ばれ、ウクライナ出身の「盲目の詩人」エロシェンコとの縁から新宿中村屋の制服に採用された【写真5】。ルバーシカはロシアでは農民の服装だったが、日本では知識人の間に普及した【写真6】。また、昭和の婦人雑誌には、子供用ルバーシカの作り方(型紙の裁ち方から縫い方まで)が詳しく紹介されている【写真7・8・9】。

【写真5】「大正10(1921)年店員の制服にルパシカを採用」(新宿中村屋HP)
【写真5】「大正10(1921)年店員の制服にルパシカを採用」(新宿中村屋HP)
【写真6】『特別展「秋田雨雀展」』青森県立図書館、青森県近代文学館編、2002年。秋田雨雀については第3章 東北 日本のなかのロシア を参照されたい。
【写真6】『特別展「秋田雨雀展」』青森県立図書館、青森県近代文学館編、2002年。秋田雨雀については第3章 東北 日本のなかのロシア を参照されたい。

【写真7】ルパシカ型ブラウス(『通学服全集』1934年)
【写真7】ルパシカ型ブラウス(『通学服全集』1934年)
【写真8】「晴れた五月にルパシカを」(『新女性』1955年)
【写真8】「晴れた五月にルパシカを」(『新女性』1955年)
【写真9】「晴れた五月にルパシカを」(『新女性』1955年)
【写真9】「晴れた五月にルパシカを」(『新女性』1955年)

          「住」では、ロシアとの気候風土の相違が大きく、日本の生活に取り入れられたものは少ないが、明治10年代の北海道では、ペチカを備えたロシア式丸太小屋が建てられた。篠津(現江別市)に入植する屯田兵のために建てられたロシア式丸太小屋の数は計20戸に及んだ【写真10】。これは、北海道の開拓を任務とする開拓使の長官だった黒田清隆が、ロシアでの視察経験から、ロシア風丸太小屋の防寒性とペチカを高く評価したためで、ロシアからペチカ職人や大工を北海道に招聘し、官舎や公立学校等にペチカや暖炉が設置された。ところが、ロシア式丸太小屋は日本人には建築が難しく、また施工の悪いペチカは温かくなかったため、両者は共に廃れていった。

 

【写真10】篠津屯田兵屋(明治14年頃)ロシア式丸田組兵屋(北海道大学附属図書館蔵)
【写真10】篠津屯田兵屋(明治14年頃)ロシア式丸田組兵屋(北海道大学附属図書館蔵)

         なお、日本では北原白秋作詞・山田耕筰作曲の唱歌「ペチカ」から、ペチカは暖房器具としてなじみ深いが、ロシアのペチカは、レンガ積みの暖炉であると同時に、パンを焼き、煮炊きを行うオーブンでもある。

         暖房した際の排熱をペチカ本体のレンガに吸収させて長時間継続的に放熱させる暖房システムは、寒冷地に適したものだった。そのため、石炭が主な暖房の燃料だった昭和の時代の北海道では、採炭地が近いこともあり、官公庁や共同住宅で石炭用ペチカが採用された。一般住宅でも、壁を伝って部屋を暖房させる壁ペチカが取り入れられた【写真11】。しかし、燃料が石炭から灯油に替わると、ペチカは下火となっていった。

【写真11】ペチカのある寒冷住宅(『北海道百年記念写真集 北海道』 1968年)
【写真11】ペチカのある寒冷住宅(『北海道百年記念写真集 北海道』 1968年)

         なお、現在も札幌には、灯油ストーブを煉瓦で造り付けた暖房を「ペチカ」と称し、設計・施工を行う会社がある。

          以上のように、「衣」や「住」は、特定の地域でのみ受容されたもの、一時人気を博したが、現代の生活に定着しているとは言えないものが少なくない。これに対して「食」は、今回紹介できなかったものも多々ある。しかし、隣人として、あるいは時間や空間を共にしたロシア人が、様々なレベル・形態で介在者となってきたことを忘れてはならないだろう。

 

         <主な参考文献>

                 倉田有佳「樺太残留ロシア人との関わりから考える明治末年の東京の「ロシヤパン」ブーム」『パン文化研究』第2号、日本パン学会、2019年、51-65頁。

                 倉田有佳「ユーラシア研究所レポート118.ロシアゆかりの街、函館で今「焼きピロシキ」が熱い」〔http://yuken-jp.com/report/2019/12/08/118/〕.

                 社団法人北海道建築士会編『北海度の開拓と建物 上巻』(非売品)、1987年。

                 新宿中村屋ホームページ〔https://www.nakamuraya.co.jp/pavilion/history/〕.