[バレエ界のなかのロシア]
(川島京子)
19世紀後半ロシアで花開いたクラシック・バレエは、チャイコフスキーの三大バレエとして知られる『白鳥の湖』『眠れる森の美女』『くるみ割り人形』など多くの傑作を生み、以来、ボリショイ劇場、マリインスキー劇場を中心に世界中を魅了し続けてきました。ロシア・バレエと日本との出会いは意外にも古く、ロシアでは 19世紀末から 20世紀初頭にかけて、世界的なジャポネズリ(日本趣味)の流行の中で、『ダイタ』(1896年)、『ミカドの娘』(1897年)、『月から日本へ』(1900年)といった日本をモチーフにしたバレエが上演されていました。また、1916年 6月には初の来日公演も行われ、マリインスキー劇場のソリストであったエレナ・スミルノワとボリス・ロマノフが帝国劇場で 3日間、17演目を上演。ここで日本人ははじめて本格的なバレエを目にすることになります。この公演は、第四次日露協約(1916 年7月調印)に向けての文化交流として実現したもので、この時スミルノワは帝劇女優たちと交流したり、日本舞踊家の藤間藤蔵(とうぞう)に弟子入りした記録が残されています。また、興味深いことに、調印後の 9月、答礼使節としてロシアを訪れた閑院宮載仁親王のために、マリインスキー劇場は特別にバレエ『せむしの仔馬』にスミルノワが踊る日本舞踊を加えた版を上演。当時の資料によれば、「山田耕筰の曲をもとにボリス・アサフィエフがオーケストラ編曲、踊りはボリス・ロマノフが東京の振付家トゾ(藤間藤蔵)の指導を再現した」とあります。
こうして幕を開けた日ロバレエ交流ですが、翌 1917年にはロシア革命が起こります。革命によって祖国を追われた白系ロシア人たちは、世界中にロシア・バレエを伝播することになります。日本でバレエの移植・発展に大きく貢献したのが「三人のパヴロワ」と呼ばれるロシアからのバレリーナたちでした。最初に来日したのは、1919年にロシア革命に追われて亡命したエリアナ・パヴロバ(1897-1941)。エリアナは鎌倉に日本初となるバレエ学校「パヴロバ・バレエスクール」を設立。1941年に戦地慰問先の南京で亡くなるまで、その後の日本バレエを支える多くの弟子を育てました。エリアナの弟子たちから孫弟子、曾孫弟子というように日本のバレエはエリアナを頂点とする系譜が出来上がり、エリアナは現在「日本バレエの母」と称されています。二人目のパヴロワは、1922年9 月に来日した、世界的舞姫アンナ・パヴロワ(1881-1931)です。アンナ・パヴロワは帝劇での 20回公演を皮切りに、日本全国を約 2か月間かけて巡業し、日本中がその美しさに魅せられました。そして、1936年には 3人目のパヴロワ、オリガ・サファイアの名で知られるオリガ・パヴロワ(1907-1981)が、在モスクワ日本大使館の清水威久の妻として来日、日劇ダンシング・チームのバレエ教師として迎えられました。オリガ・サファイアは、レニングラード国立アカデミー舞踊学校(旧・帝室バレエ学校、現・ワガノワ・バレエ学校)で学んだバレリーナであり、技量はもとより、夫の清水威久とともに出版した『バレエ讀本』『バレエを志す若い人たちへ』『わたしのバレエ遍歴』という 3冊の著作を通して日本に初めて本格的なバレエ理論をもたらしました。こうして、日本におけるバレエはロシアの影響を多大に受けながら新たな文化として定着してゆきます。
戦後の日ソバレエ交流は、1956 年日ソ共同宣言による国交回復の翌年、1957年のボリショイ劇場バレエの初来日公演から始まります。本場ロシアの国立バレエが、コール・ド・バレエまでもを引き連れて空前の規模で来日したこの公演は、日本の観客、とりわけ日本バレエ界に大きな衝撃を与え、一夜にして日本バレエ界は大同団結、「国立劇場設立運動」を核とする日本バレエ協会が設立されました。続いて、1959年にはモイセーエフ民族舞踊団、翌1960年にはレニングラード・バレエ(現・マリインスキー劇場バレエ)一行 120名が来日。レニングラード・バレエは、57年のボリショイ・バレエの演目が小品ないしは全幕作品の一部だったのに対し、『白鳥の湖』『ジゼル』『石の花』を全幕通しで上演。ここで初めてロシア・バレエが完全な形で日本に紹介されることになりました。その後も両バレエ団に加え、キエフ・バレエやモスクワ音楽劇場バレエ、また、日本で絶大な人気を誇るマイヤ・プリセツカヤなどが頻繁に来日して、日ソバレエ交流を大いに盛り上げてきました。
1960年には本場の教育メソッドの導入を目的に、東京バレエ学校が 開校。ソビエト文化省から派遣されたスラミフィ・メッセレル、アレク セイ・ワルラーモフの下には、バレエ団の垣根を超え多くのダンサーが 集まりました。また、その間、野崎韶夫(1906-1995)、薄井憲二(1924- 2017)といった本国からも高く評価される研究者が、執筆を通してロシ ア、ソビエト・バレエの紹介に貢献しました。舞踊家でもあった薄井は 1988年、短命に終わった東京バレエ学校に代わって、本格的なロシア・ メソッドによるバレエ・ダンサー養成機関「ロシア・バレエ・インスティテュート」を立ち上げ、門下からは、のちにボリショイ・バ レエ団で外国人初のソリストを務めた岩田守弘(現・ニジェゴ ロドスキー国立歌劇場芸術監督)をはじめ世界で活躍するダ ンサーたちを輩出しました。この間、日本のバレエ界は目覚ましく発展し続け、1997年には念願の新国立劇場も開場。初代 芸術監督の島田廣は、この新たな日本バレエの出発点をロシ アからの正統な流れの中に置くとして、開場記念公演ではマ リインスキー劇場の全面的な協力を得て『眠れる森の美女』を 上演しました。
現在も、ボリショイ劇場、マリインスキー劇場が定期的に来日し絶大な人気を得ているほか、東京バレエ団や牧阿佐美バ レヱ団がロシア公演を成功させるなど、日ロのバレエ交流は ますます盛んに行われています。なお、マリインスキー劇場で は、2013年に日本人として初めて正式入団を認められた石井 久美子、2017年に入団し多くの作品で主役を務め世界中から 注目を集めている永久メイが活躍。日ロバレエの新たな架け 橋を担っています。